アマギフ1000円を払ってエロ電話する約束をしたのにドタキャン・ブロックしてきたパパ活女子にエア説教してみた




狂気の記事をお読みくださりありがとうございました。高密度に濃縮された久保たかしエッセンスを一気に摂取して頭がクラクラしているだろうと思います。お疲れ様でした。ここからは解説に入ります。

今回の記事は一体どこまでがガチでどこからがネタなのかさっぱり分からないだろうと思うので説明しますと、ドタキャン・ブロックしてきたパパ活女子に対し当時、「こんなことするなんて最低だ! こっちはずっと優しくしてたのに! せめてブロックする理由教えてくれよ!」と憤ったことは本当です。

ただ、今のぼくはそのようには全く思っていません。「まあこういうことって普通にあるよな。全部自分のせいだったな。当時の自分は本当に未熟だったな」と思っています。この2年半色々なことがあって考え方が180度変わりました。

そこで、「こんなことがあってこんな風に成長できました」ということを伝える記事を書きたいと思ったのですが、ダメだった時の自分を普通に説明しても面白くないので、ダメだった時の自分のおかしな思考回路や言動をむしろ全肯定してややオーバーに書くことで、逆に昔の自分の滑稽さを浮き彫りにするという手法を取ったということです。
というわけで今のぼくはあんなにヤバい人間ではないのでひとまずご安心ください。

しかし、少し前までのぼくは本当に愚かでした。お金を払って性的なサービスを依頼した人に直接説教こそしていないものの1人では本気で怒っていましたし、友達や企業の代表などには実際にガチ説教をしていました。今回の記事はある種のホラーになるように書きましたが、ぼくは少し前までそのホラーを現実にやっていたのです。

その結果何人もの人と絶交寸前になったりブロックされたりしてきましたが、その度にぼくは反省するどころか逆ギレしていました。「親切に欠点を直そうとしてあげたのになんて酷い仕打ちをするんだ」と思い、同じことを何度も繰り返してきました。

なぜそんな愚行をし続けていたのか? それは、ぼくが以下の2つの問題を持っていたからです。

 

・「学校的世界観」に生きている。
・自分ではなく他人を変えようとする。

 

この2つがぼくの根本的な問題でした。

しかしぼくは幸いにも、そのことに気づくことができました。正直まだ気持ちや行動面では変えられていない部分が大いに残っていますが、今は少なくとも頭では、これら2つが大変な問題であると理解しています。

この社会に生きる人たちは学校の先生や友達のように接してくれないのが当たり前だし、人は他人を変えようと躍起になるのではなく、ひたすら自分を変えようとすべきです。

ぼくの問題は具体的にどういうものだったのか? そしてそれは何をきっかけにどのように変わったのか? それらをこの解説ページに詳しく書くことでぼくが得た学びを伝えるのが、この記事の目的です。

つまりこれは、返信してくれない風俗嬢に説教するおじさんみたいな人間の解体新書ということです。そういう人が自分の奇行の背景にあった思考回路やどうやってその奇行のヤバさに気付いたのかを語る文章というのはきっと貴重だと思います。超長いですが最後まで読んでもらえると幸いです。

 

目次は以下の通りになります。

・フリースクールの代表に説教事件
・社会は学校ではない
・「他人は変えられない」と何度言われても受け入れられなかった
・1回違うやり方を試してみたら、世界が変わった
・他人と自分とを繋いでいた綱を手離した
・猿を見るのと同じ目で他人を見るようになった
・他人を変えようとしていたのは、自己利益を追求できていなかったから
・利他心から他人を変えたい場合はどうすればいいのか?
・「他人は変えられない」という言葉の真意
・学びをまとめた上で2つの事件を振り返る
・人はどうやったら自分の勘違いに気づくのか?

 

・フリースクールの代表に説教事件

パパ活女子ドタキャン・ブロック事件では実際に説教はしておらず「他人を変えようとする」の話をするには少し弱いので、実際に説教をした「フリースクールの代表に説教事件」をまず簡単にお話します。新卒で働いていた会社を4ヶ月でスピード退職した直後にこんなことがありました。今から4年前の話です。

・とあるフリースクールの代表に、「ぼくはフリースクールを作ろうと思っています! その参考にしたいのであなたの作ったフリースクールを見学させてください!」とメッセージを3回送る。

→全て無視される。

→「なんて失礼なやつなんだ!」と思い、保護者や生徒のために用意されたであろう無料開放日にそのフリースクールを訪問する。

→代表に会う。返信しなかったことを謝ってきたら許そうと思っていたが、謝られるどころか怪訝な顔をされる。

→帰ってからDMで「3回もメッセージを無視した上に謝らないなんてそれでも教育者なのでしょうか? あとあなたのコミュニケーション力低すぎてこのままじゃお客さんが離れていくと思いました」と説教する。

→「自分の怒りを相手のためかのように発信するのはよくないと思いますよ」と言われてブロックされる。

あまりにも酷すぎて、思い出しただけで穴があったら入りたいです。パパ活女子にキレたエピソードより数段ヤバくて戦慄してしまいます。

しかしぼくはどうしてこんなことをしたのでしょう? その原因となる、先ほど挙げたぼくの問題を順番に見ていきます。

 

・問題その1 「学校的世界観」に生きている

「学校的世界観」というのはぼくが勝手に言っている言葉ですが、

「『人は人に対して基本的に情を持って親切に接するべきである』と考える世界観」

と定義します。

もちろん例外もあるでしょうが、学校は大体この世界観で動いていますよね。「困っている人がいたら助けましょう」「相談には親身に乗ってあげましょう」「悪いところはきちんと指摘してあげましょう」……学校では多くの人がそういうことを言われてきたはずです。

ぼくは、

・小中高どれも恵まれ、情のある優しい人たちに囲まれていた。
・母親も愛情深い人で、ぼくの質問や相談にはなんでも応えてくれたし、悪いところは丁寧に指摘してくれていた。
・新卒で入った会社は4ヶ月で辞め、その後はアルバイトをやったり辞めたりすることを繰り返していたので、社会人として厳しい視線を注がれる経験もしてこなかった。

という理由により、学校的世界観しか知らずに育ってきました。だから、社会も学校的世界観で基本的には回っているし、回るべきだと思っていたのです。

なので、「フリースクールを作る際の参考にしたいのであなたのフリースクールを見学させてください!」とDMを送った時も、相手には当然こう思ってもらえると考えていました。

「フリースクールを作りたいなんて立派な志だな。よし、こういう気持ちにはしっかり応えてあげなきゃいけないから、こちらの利益にはならないけど見学させてあげよう」

と。
もしなんらかの理由で見学させたくないとしても、丁寧な断りメッセージが来るべきだと思っていました。

しかし結果は完全無視だったので、「こんな酷い仕打ちをするなんて! 教育者失格だろ!」と憤慨したというわけです。

 

・問題その2 自分ではなく他人を変えようとする

そう憤慨しても、「こんな酷い人もいるんだな」と思うだけなら説教DMを送ることはなかったでしょう。しかしぼくは、「説教して相手を変えたい!」と思いました。

その思いが湧き出た背景にあったのは2つの感情でした。復讐心と利他心です。

復讐心の方は、「この怒りをぶつけてひれ伏させないと腹の虫が収まらない」というものです。相手を傷つけたいと思っていたし、相手に「本当に申し訳ありませんでした」などと言わせて怒りの感情を解消させたいと思っていました。

利他心の方は、「欠点を改善させて良い方向に向かわせてあげたい」というものでした。
欠点をそのままにしていると、相手はぼく以外の人にも同様の酷いことをして嫌われてしまうでしょう。その悲劇を食い止めてあげたいと、格好つけているわけではなく本当に思っていました。ぼくは昔からかなりお節介な人間なので。

それで長文の説教DMを送ったのですが、相手を変えることは当然できず、ただ静かに関係を切られただけでした。

これが実際のDMです。

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社会は学校ではない

ここからはどうやってぼくが2つの問題を改めていったかをお話します。

ぼくが「もう学校的世界観で生きてはいられないんだ」と思うようになったのは、今年の2月に1つのネットドラマを見たことがきっかけでした。ABEMAの、『会社は学校じゃねぇんだよ』というドラマの新世代逆襲編です。

会社は学校じゃねぇんだよ 新世代逆襲編
『会社は学校じゃねぇんだよ』 新世代逆襲編

これは大学生だった男が起業して会社を大きくしていく話で、突っ込みどころがかなりあったりして名作とは正直思わなかったのですが、タイトルになっている「会社は学校じゃねぇんだよ」というメッセージはものすごく刺さりました。特にこのシーンです。

・ある大会社の社長が主人公に投資をする。主人公はそのお金である事業を立ち上げる。
・しかしその大会社の社長は同時に主人公がやっているのと同じ事業の子会社を立ち上げ、自分の会社に入社してきた主人公の彼女にその子会社の社長をやらせる。理由は「どっちが勝っても俺が得するようにするため」
・主人公と彼女とで、ある工場との契約の争奪戦になる。
・主人公が先に頼んだのに、工場長はより儲かる彼女の会社との契約を取り、主人公の会社とは契約しないと伝える。
・主人公は諦めずに「あなたの工場はここが素晴らしいからあなたの工場じゃなきゃダメなんです!」と口説く。心を打たれた工場長は「やっぱり君の会社と契約するよ」と言う。
・と思いきや、大会社の社長が「この契約は絶対に取れ。でなければお前の会社は解体する」と圧をかける。彼女は「うちと専属契約をしてもらわなければそちらの工場としている他の契約も全て打ち切ります。そしたらそちらの工場の売り上げの7割が無くなりますがよろしいですか?」と脅しをかける。
・工場は彼女の会社と専属契約を結び、主人公は敗れる。
・彼女が主人公に「酷いことしてごめんね」と謝るが、主人公は彼女に対して怒ることも責めることもせず、「君は当たり前のことをしただけだ。会社は学校じゃないんだから。俺のせいなんだ。俺が力不足なんだ」と言う。

このシーンを見て、ぼくは思いました。「ああ、会社では利が正義なんだな」と。

情が大事な学校的世界観で考えたら、大会社の社長はだいぶ悪人です。主人公が彼女と付き合っていることを知っているのに、主人公と同じ事業の会社の社長を主人公の彼女にさせて競わせるのですから。そして工場の人もけっこう酷いです。先に頼んできた方より利益がある方を選び、その後「やっぱり君と契約するよ」と言ったのにまたそれを覆すんですから。

でも、会社ではこれは悪ではないのです。何故なら会社というものは利を追求しなければならず、利のみを考えるのが当然だからです。情ではなく利が正義になる場所だからです。だから主人公は散々な目に遭っても、「俺のせいなんだ。俺が力不足なんだ」と言ったのです。「情がない!」なんて言ったって誰も同情してくれません。

ぼくは最初「主人公は厳しい世界で生きているなぁ」なんて思っていたのですが、ふと、「これってもしかして社会も同じなんじゃないか?」という考えが頭をよぎりました。

「『会社は学校じゃねえ』のと同じように、『社会も学校じゃねえ』んじゃないか……? だからみんなぼくに情をかけてこなかったんじゃないか……? でもそれって別に冷たい訳じゃなくて、当たり前のことだったんじゃないか……?」

恐ろしい気づきではありましたが、こう考えると今まで自分が感じていた違和感が一気に繋がります。その頃はTwitterのフォロワーに対して違和感を感じていました。

フリースクールの代表に説教事件の半年後、ぼくは「フリースクールを作るのに必要な資金と人脈を集めるために多くのフォロワーを手に入れよう」と考えTwitterで様々な発信をし始めたのですが、ここまで見てきたようにぼくは狂人なので、多くのフォロワーから叩かれるようになっていたのです。そしてそういうフォロワーに対してぼくはいつも、

・欠点はちゃんと教えるべきだ
・結果が出ていなくても努力や姿勢を評価するべきだ
・深刻に落ち込んでる時は心配の声をかけるべきだ
・ブロックする前にはその理由を伝えるべきだ

などと言ってきました。そして、「そうしない人は人としての心がないんだよ……。なんでこんなに人の心がないやつばかりなんだ……? おかしいだろ……」と強烈な違和感を感じてきたのです。

でも、「社会は学校じゃねえ」なら筋が通ります。Twitterのフォロワーは学校の先生でも友達でもないんだから、ぼくに優しくする必要なんかない。ただ自分に利がある関わり方をするだけで、ぼくのために何かしてあげる義理なんてない。もちろん社会に情がない訳ではないけど、それは「あったらラッキー」という性質のもので、ない時に怒るのはお門違いというものである……。

そう考えていって、ぼくは「なるほど、そういうことだったのか!」と膝を打ちました。今までずっととんでもない勘違いをしていたことの恐ろしさより、謎が解けた喜びの方が大きかったのです。

それにこう考えると、ただ自分が努力すれば良いだけというシンプルな話になります。優しくしてもらいたかったら、そうしたいと思われる自分になればいいのです。ぼくが人望を身につければ、人は「この人には優しくしたいな」と勝手に思ってくれます。優しくすることに利があると思わせられなかった自分が悪かっただけだったのです。

そして、社会に生きていると、単に正当に利を追求する以上の理不尽なことをされることもあります。ぼくも「久保だから」という理由だけでおかしなことを何もしてないのに複数の人から叩かれるということが何度もありました。正直いじめみたいにもなっていました。
そういう理不尽は辛いですが、犯罪でもない限り、理不尽なことをした人を叱ってくれる先生は基本的にいません。自分の力でなんとかするしかないのです。もちろん理不尽は無くなるべきですし自分は他人に降りかかっている理不尽を無くそうと努力しますが、自分に降りかかった理不尽に対して「こんなのおかしい!」と泣き言を言ってもほとんど何の意味もなかったのです。

ぼくには『会社は学校じゃねえんだよ』の主人公のような、自分の力で何とかしていくという気概が圧倒的に欠けていました。もういい大人なんですから、この残酷な社会で幸せに生きるためにはただひたすら努力するしかなかったのです。

 

「他人は変えられない」と何度言われても受け入れられなかった

続いてもう一つのぼくの問題である「自分ではなく他人を変えようとする」についてお話しますが、やや複雑なので学校的世界観の話の3倍ぐらいのボリュームになります。

フリースクールの代表に説教事件以外にも同様のことをいくつもしていたぼくは、多くの人からしょっちゅう言われていた言葉がありました。


「他人は変えられないよ。他人を変えようとせずに、『自分がどうするか』を考えよう」

 

というものです。

しかしぼくは何度言われてもこの言葉を受け入れることができませんでした。復讐心の方は捨てられないと思っていましたし、利他心の方は捨てる必要がない、というか、捨てるわけにはいかないと思っていたからです。

ぼくは人を変えるために学校を作ろうとしていたぐらい「人を良い方向に変える」というのを素晴らしい行為だと思っている人間です。そんなぼくからすると、「他人は変えられないから他人を変えようとしない方がいい」というのは利他心の全くない冷淡な考えにしか思えず、論外だと無視し、ずっと他人を変えようとばかりしていました。

1番それをやっていたのは先ほど説明したきっかけによってできたTwitterのフォロワーに対してで、ぼくはフォロワーに対していつも、考えを変えさせたり謝らせたりしようと躍起になっていました。

もちろん、その時の「他人を変えたい」の背景にあったのは、利他心ではなく復讐心の方です。「相手をどうにかしてやらないと気が済まない」という思いに取り憑かれたまま1年半、Twitterでひたすらレスバを続ける日々を送りました。

しかしふとしたきっかけで突然、その日々が終わりを迎えたのです。

 

1回違うやり方を試してみたら、世界が変わった

それは去年の年末、フォロワーの1人からある指摘をされた時のことでした。その指摘は簡単に言うと「この前私が書いたこれ、やってないですよね?」というものだったのですが、ぼくはその書き込みに覚えがなかったので、「その書き込みはあんまり見てなかったです」と伝えました。

すると当然「あ、見てなかったんですね」となるかと思ったのですが、その人は「そう言うと思いました。で、いつやるんですか?」と高圧的に言ってきたのです。それで「はあ? なんだその言い方」とカチンときたぼくは、いつものようにレスバをしようとしました。

でもその時、ふと思ったのです。

 

「ここでぼくが相手を責めたら、いつものように泥沼になるだけだな」

 

と。

毎日のように言い争いをしていたぼくはその頃、精神的な疲労がピークに達していました。同じような泥沼展開を何度も繰り返していたせいでフォロワーから「そろそろ飽きてきた」と言われ、自分自身もいい加減嫌気がさしてきていたせいで、ふと、「ちょっといつもと違うやり方を試してみるか」という発想になったのです。

そして何度も言われてきた「他人を変えようとしない方がいいよ」という言葉を思い出し、相手に謝らせたりさせようとするのをやめ、「じゃあ明後日までにやります!」と元気に答えました。

するとその人は怒ったりすることなくスッと引いていき、穏便にその場が収まったのです。

これがぼくにはとてつもない快感でした。「おお! 『他人を変えようとしない』ってめっちゃ楽じゃん!! すげえ!」とものすごい感動を覚えたのです。

しかもその晩、さらに良いことがありました。ネットで仲良くさせてもらっている人にその出来事と感想を伝えたら、「おお! そうそう、そうだよ! やっと分かったか!」と満面の笑みで喜んでくれたのです。

ぼくはその人のことが人として好きだったので、「この人がこんなに喜んでくれるなら、これからもずっと今日みたいな振る舞いをし続けよう」と思いました。

そしてその日を境に突然パチンとスイッチが変わり、他人を変えたいという気持ちが本当にほとんど無くなったのです。

 

他人と自分とを繋いでいた綱を手離した

この時の感覚は言語化するのが難しいのですが、「他人と自分とを繋いでいた綱を手離した感じ」と言えばいいでしょうか。

ぼくはそれまで「他人を変えよう」と思っていたので、他人と自分とを太い綱で繋いでいました。他人が何か暴れた時に操作して、大人しくさせたり地面に叩きつけたりするための綱です。でもいざ暴れられた時に操作しようとしても相手は大抵思い通りにならずに暴れ続けるので、逆に自分がその綱に振り回され、引きずられ、傷だらけになっていました。そういうことをずっと繰り返していたのです。

しかし「これからは他人を変えようとするのをやめよう」と自分ルールで決めてしまうと、もう綱を張る意味がなくなります。それで、綱をパッと手離したのです。

他人と綱で繋がっていなければ、他人が何をしようと自分が振り回されることはありません。すると自分がダメージを負うことがなくなるので、相手を大人しくしたいとか傷つけたいとかいう思いも生まれなくなるのです。

つまり、「他人を変えようとしないと決めて綱を手離した結果、他人を変えたいという気持ちの原因になっていたもの(ダメージ)が必然的に無くなり、他人を変えたいという気持ちが自然と消失した」ということです。

「他人は変えられないよ」という言葉を信じたわけではなかったのに、「ルール的に他人を変えられない」という風にしたおかげで、結果的に「他人は変えられない」という言葉を信じた場合と同じ効果を得られたというわけです。こんなことになるとは思ってもみませんでした。

 

猿を見るのと同じ目で他人を見るようになった

他人との綱を手離した途端、革命的な変化が次々と自分に起きました。順番に書いていきます。

 

①他人に期待しなくなった。

それまでのぼくは他人に様々な期待をしていました。それは他人がぼくにとって「変え得る存在」だったからです。20点を50点にできる可能性があるなら、「なんとか50点にならないか」と期待してしまいます。

しかし「これからは他人を変えようとするのをやめよう」と自分ルールで決めてしまった以上、他人は「(ルール的に)変えられない存在」になります。変えられない存在に期待してもしょうがないので、他人に期待する心が自然となくなったのです。

これは動物園に行った時の感覚に近いかもしれません。例えば猿がキーキー鳴いている時、「このうるさい猿をどうやって黙らせてやろうか」とは思わないでしょう。動物の行動なんてまず変えられないと分かっているからです。逆に、「猿うるさいぞ! 黙れ!」と顔を真っ赤にして言う人がいたら滑稽すぎます。

失礼な言い方ではあるのですが、ぼくにとって他人も猿のように映り始めたのです。誰かがぼくの悪口を言ってきても、「今日も元気にキーキー鳴いてるなぁ。まぁでも猿に『鳴くな』って言っても無理だしなぁ。好きにやってくれ! ぼくは知らん!」という風に思うようになりました。

 

②他人に興味が湧いてきた。

「鳴くな!」と言わないようになると、「そもそもこの猿はどうしてこんなに一生懸命鳴いているんだろう?」という興味に自然と意識が向くようになりました。「何か嫌なことがあったのかな? そうか、きっとお腹が空いているんだ。お腹が空いているとこんな風になっちゃうんだな、なるほどな」などと考えることで、ただの苦行になるはずの時間が興味深い人間学習の時間へと様変わりし始めました。

 

自分の行動に集中するようになった。

「猿を変えないことはもう確定している。であれば、ぼくが考えるべきは『その変わらない猿とどう関わっていくか』しかないよな。関わりたくないと思ったら離れればいいし、関わると決めているなら自分にとって得になる関わり方をすればいいな」

と考えるようになりました。

 

ユーモアで返すようになった

嫌なことを言われてもユーモアで返すようにすれば、楽しい気持ちになるので自分の得になります。しかもそういう対応をすると大抵相手はそれ以上あまりひどいことをしなくなりますし、普通は泥沼の争いになるところを平和に乗り切ることができたことでなんだか誇らしい気持ちになることまでできます。得だらけです。

 

これだけのことが次々に起こり、結果的に他人を受け入れられるようになってきました。他人が、自分を煩わせる存在から自分にとって得になる存在へと変わったからです。

もちろん完全に変わったわけではなく、数十人から一度に責められるなど限度を超えた時は頭に血が上り、相手をどうにかしてやりたいという気持ちに心が支配されます。でも、そういう風になる頻度は五分の一ぐらいに減りました。

 

他人を変えようとしていたのは、自己利益を追求できていなかったから

そういう風に変化してみるとすぐに、気づいたことがありました。「他人を変えようとしない」というのは、「自己利益を追求できるようになること」だということです。

ぼくはずっと、「(復讐心から)他人を変えようとしない」というのは、「何か言い返したくなったりしてもグッと堪えて我慢する」ことだと理解していました。だから、我慢するのに耐えられない自分は他人を変えようとするしかないのだと思っていました。

実際、1番最初はそうでした。「試しに1度他人を変えようとするのをやめてみよう」と考えた時はグッと我慢して言葉を飲み込んだのです。

でも、その行動を褒められて「これからも他人を変えようとするのをやめよう」と決めてからは、「我慢するとかそういうことじゃないな」と気づきました。

「他人を変えようとしない」というのは、「他人に振り回されない」ということだったのです。ダメージを受けたままやり返さないのではなく、ダメージをそもそも受けないのです。

先ほど綱の話をしましたが、ものすごい勢いで暴れる他人を綱で一生懸命コントロールしようとして、逆に振り回されてボロボロになっているぼくの姿を想像してください。そのぼくは顔を真っ赤にしてこう言っています。

「この人酷くない!? こんなにぼくを傷だらけにしてさ! これ以上傷を増やさないために、なんとかこの人を大人しくさせようと頑張ってるんだよ!」

そんな姿を見たら、絶対にこう言いたくなりますよね。

 

「いや、その綱離せば?」

 

と。

そう、自分が楽になるためには、別に他人をコントロールする必要などなかったのです。ただ綱を離せばそれで済む話でした。

つまるところぼくは、自己利益を追求できていなかったのです。ぼくは自分自身のことを合理的な人間だと思っていましたが、全くそうではありませんでした。本当に自己利益を追求するなら、不毛な綱引きからはとっとと降りるべきだったのです。

ぼくは嫌なことを堪えられるようになったのではなく、自分にとって得な方を選べるようになっただけです。人は不快から快にしか向かうことができない生き物ですから、「得」というのは最大の魅力だと思います。

「期待値を下げる」「他人に興味を持つ」「自分の行動に集中する」「ユーモアで返す」……これらは全て自己利益を追求した結果、自然にしたいと思ったことです。

 

利他心から他人を変えたい場合はどうすればいいのか?

上記ではずっと「(復讐心から)他人を変えたい」について話していましたが、「(利他心から)他人を変えたい」についてはどうでしょうか?

例えば、「明らかなクズ男と付き合っている女友達を別れさせたい」という気持ちは愚かなものでしょうか? 他人を変えるのは不可能だから、自分の課題にのみ集中して友達を見捨てるべきでしょうか?

ぼくはそうは思いません。利他心は美しく立派なものですし、一生懸命友達を変えようとしていいと思います。

ただし、それは慎重に、やりすぎない範囲でやるべきだと思います。人間は誰もが自分なりに一生懸命生きており、その生き方に口を出すのは本来、越権行為になってしまうからです。

相手は悩み苦しみ抜いた末にその生き方を選択しているのだということを念頭に置き、リスペクトを持って謙虚に、提案だけをする。決して偉そうにしたり押し付けたりしない。

それが肝心なのに、ぼくはフリースクールの代表にその逆のことをしてしまいました。フリースクールを実際に運営して毎日必死で頭を悩ませている人に、ド素人が偉そうに説教をしたのです。本当に最悪なことをしました。

 

「他人は変えられない」という言葉の真意

ぼくは何人もの人から言われてきた「他人は変えられない」という言葉を言葉通りに受け取ったので、「いや、変えられるだろ。諦めるなよ」と思ってどうしても同意できなかったのですが、今思えば、この言葉は本当はこういう意味だったのでしょう。

 

「他人は変えられない(のが基本だと考えた方がいい)」

 

そう、人が他人を全く変えられない筈はありません。復讐心からでも利他心からでも、人を変えられる場合はあります。わざわざ例を出すまでもなく、誰もがそういう経験をいくつも持っているでしょう。

でも、人を変えるのはやはりものすごく難しいことです。変わらないことの方が圧倒的に多いのは認めるほかありません。なので、

・「復讐心から他人を変えたい」の場合は、自分を変える方が効率がいいよ
・「利他心から他人を変えたい」の場合は、他人を変えようとしていいけど、変えられないことを覚悟しておくべきだよ

ということなのだと思います。

決して、「諦めろ」とか「利他心を捨てろ」とかいう意味ではないのです。文字通りに捉えて「諦めんじゃねーよ!」と少年漫画的に考えていた自分は本当に愚かでした。

 

学びをまとめた上で2つの事件を振り返る

以上の学びをまとめると、こうなります。

 

「社会に生きる他人は情ではなく利で動いており残酷である。その他人をコントロールすることは難しいので、何か嫌なことをされた時、その他人を変えることではなく自分がどうするかだけを考えるべきである」

 

これを踏まえた上で、パパ活女子ブロック事件とフリースクールの代表に説教事件を振り返ってみます。

パパ活女子がぼくをブロックしたのもフリースクールの代表がぼくの見学依頼連絡を無視したのも、「利を感じなかったから」でしょう。

パパ活女子は2回電話の約束をしたので最初は利を感じた筈ですが、何か都合や気が変わったのだと思います。
フリースクールの代表はもっと単純で、何者でもないぼくを見学させることに利を感じる筈がありません。

社会は情ではなく利で動いているので、利を感じなかったらブロックしたり無視したりするのは当然です。そしてそうする理由を伝える義務ももちろんありません。

そしてぼくが考えるべきは、相手の酷さではなく自分の未熟さです。結局、利を感じさせられなかった自分がダメなのですから。

ぼくの声がカッコよかったり提示されている料金の何倍ものお金を払っていたりしたら、パパ活女子はきっとまた電話してくれていたでしょう。何より、そもそもきちんと自分を磨いて彼女を作っていれば、パパ活女子に依頼する必要すらありませんでした。

フリースクールの代表も、ぼくが有名であったり見学のためにお金を払うと言っていたりしていたら、見学させてくれたかもしれません。

「最低な対応をされた!」と被害者ポジションに入り、相手を恨んでいた当時の自分のことを、今では本当に情けなく思います。

 

人はどうやったら自分の勘違いに気づくのか?

それにしても、ぼくはなぜ27歳まで自分の勘違いに気づかなかったのでしょう? そして27歳にしてなぜ突然、180度考えを変えることができたのでしょう?

2つの問題への指摘を、ぼくはある人から明確にされていました。「堀元 見」という人です。大学時代に知り合ってから度々相談をさせてもらっているぼくより2つ上の男性なのですが、堀元さんは本当に分かりやすくぼくの勘違いを指摘してくれていました。

 

まず学校的世界観については、こう言ってくれたことがありました。

「君は人が嫌がることをしてブロックされたりした後、それに対して『言ってもらわないと分からない』っていう言い方をするよね。でも、世の中ってそうなってないんだよ。

君の好きな『カイジ』の1巻を読み直して欲しいんだけど、利根川幸雄がみんなに言うじゃん。『大人は質問になど答えない。懇切丁寧に教えてくれるのは学校の中だけの世界で、真実は教えてくれないからお前らは推測するしかない』みたいなことを。

この社会はまさにそうで、『それはダメなんだよ』って教えてくれる人なんていないのよ。だから、ぼんやりやってくるフィードバックから『きっとこういうことなんだろうな』とか、『きっと自分は嫌がられてるんだろうな』とかを考えていくことしかできないんだよ」

 

『賭博黙示録 カイジ』 1巻 より引用

この指摘を受けてもぼくは、「いやいや、それは冷たすぎるだろ。そんな社会間違ってるよ」と思って素直に聞き入れることができませんでした。

そして「自分を変えずに他人を変えようとする」という問題についても、堀元さんの有料note記事 で、「彼には強固な『正義の使者的世界観』があり、常に他責する。このために何度も何度も過ちを繰り返している」とはっきり指摘されていました。

そして何より、ぼくは堀元さんをずっと見ていました。堀元さんはいつも徹底してビジネス的な思考をし、且つ他人に絶対に振り回されずにひたすら自分の利を追求する人であり、ぼくが学習をするには最高のモデルなのですが、堀元さんの大ファンであるぼくはかれこれ6年間も堀元さんをフォローしているのです。堀元さんの書いた200を超える記事は全て2回以上読んでいます。

それほど堀元さんの世界観や生き方にずっと触れてきたにも関わらず、ぼくはつい半年ほど前まで何も学習できていなかったのです。こんなに恐ろしいことがあるでしょうか?

 

ではそんなぼくがついに気づいたきっかけはなんだったのかというと、1つの実践でした。「試しに1回違うやり方を試してみよう」と思って1回だけ他人を変えようとしないで自分の行動を変えてみたら、「ああ、そういうことか」と急にストンと腹落ちしたのです。他人ではなく自分を変えることのメリットを、頭ではなく体で理解したのです。

学校的世界観を捨てることができたのも、おそらくその実践のおかげです。ぼくが『会社は学校じゃねぇんだよ』を試聴したのは「試しに1回違うやり方を試してみよう」事件の2ヶ月後だったのですが、たぶん大きく価値観が変わって柔軟になっている最中だったからドラマのメッセージがスッと入ってきたのでしょう(他人への期待値が下がって情を期待しなくなったお陰でもあるでしょうが))。
それがなかったらドラマを見てもたぶん全く刺さらなかったと思います。事実、ぼくはカイジの1巻を3回以上読んでいたのに利根川のセリフにずっとピンと来ていなかったのですから。

そういうわけで、言葉で伝えてくれていた堀元さんには申し訳ないのですが、100の言葉より1の実践が人を変えるのではないかと思います。
いや、「人を」というのは主語が大きすぎるかもしれません。言われただけで理解できる人はいるでしょうから。でもぼくのような愚か者は、とにかく実践することが重要だと思います。

しかしぼくは、「1回違うやり方を試してみよう」という発想になるまで頑なに実践をしませんでした。なので次に考えるべきは、「どうやったら『1回違うやり方を試してみよう』と思えるようになるのか?」という問題になります。

これに関しては、心理学に詳しいぼくのフォロワーの人がこんなことを言っていました。

「『①今のやり方ではうまくいかない』、『②他のやり方を提示されている』、この2つが、善意と説得力のある人たちから提供され続ける必要があるんだよ」

ぼくは専門的なことは分かりませんが、自分の実感としてはこの説は非常に納得のいくものです。ぼくはフォロワーに悪意を感じることが多かったですが、一部には善意と説得力を感じていました。だから他のやり方を試してみようという気になったのです。

そういうわけで、最初に「この記事は返信してくれない風俗嬢に説教するおじさんみたいな人間の解体新書です」と言いましたが、結論をまとめると以下のようになります。

 

「社会は学校のように利ではなく情で回っていると勘違いしたまま大人になり、且つ、他人ではなく自分を変える方が得だということに気づいていないと、返信してくれない風俗嬢に説教するおじさんみたいな人間になる。
そういう人が変わるには、善意と説得力のある人たちから『そのままでは上手くいかないよ』『他のやり方の方が上手くいくよ』と言われ続け、『1回違うやり方を試してみよう』という発想になって違うやり方を実践し、そのメリットを体感する必要がある」

 

これはあくまで「ぼくの場合はこうだった」というだけの話なので他の人にどの程度当てはまるのかは分かりませんが、もしよかったら1つの参考にしてみてもらえると、ぼくが長年もがき苦しみ、ここに一通りの経緯をまとめた甲斐があります。

ぼくが人から嫌われまくり自身もボロボロになり続けていたのは、

・『カイジ』の利根川が言うところの「この世の実体」
・他人ではなく自分を変えた方がいいという、言うなれば「人生の真理」

この2つに全く気づいていないせいでした。そのために数えきれないほど多くの失敗をしてきましたが、幸運にも27歳で気づけたので、これからはこの2つを意識しながら生きていきます。

もちろん大幅に変わることはできません。これからも、優しそうな人にはつい情を求めるでしょうし、あまりにも理不尽な目に遭ったらつい他責してしまうでしょう。

でも、少なくとも、パパ活女子にキレたりフリースクールの代表に説教したりといった酷すぎることはやらなくなると思います。
前の自分よりほんの少しマシな自分になって、これからの人生を生きていきます。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

 

……と、普通だったらこんな感じで締めるところですが、ぼくはこんな普通には終わりません。

ぼくは一体なぜ、誰よりも他責をしてきたのでしょうか? それは、ぼくが極端な「べき人間」だからです。

ぼくはある種すごく真面目なので、「べき」と思ったことはなんとしてもやろうとします。ずっと他責に全振りしていたのは、「他人を変えるべき」と思っていたからです。

レンタル話し相手をやっていた時のツイート より

だからひとたび「自分を変えるべき」と思えば、今度は自責に全振りします。

レンタル話し相手をやっていた時のツイート より

 

先ほどまとめた学びを毎日繰り返し心に刻みつけているうちに、ぼくは思いました。

「この学びを究極化すれば、ほとんど不幸のない最高の人生を送ることができるのでは?」

と。

この学びはそれぐらい根本的で包括的なものであり、本当にありとあらゆる問題がこの学びを習得できていないことに通じていると感じます。
会社を辞めてから4年間ずっと地獄にいましたが、その地獄でぼくは、人生を最高に素晴らしくする魔法の法則を見つけたのです。

「返信をくれない風俗嬢に説教するおじさんみたいな人間による自身の解体新書」というのは実は入り口に過ぎません。ここからは「人生から怒りや争いや不幸を無くす方法」という壮大な話になっていきます。

最初からそういう大きすぎることを言うと真面目に読んでもらえないと思って最初の目次には「学びのまとめ」までしか書きませんでしたが、まだまだ続きます。ここからが本番です。