空気が読めない人




 

これまでにnoteにて「何者かになろうとする人」「友達がいない人」に関して思ったことを書いてきましたが、毎回結論は「地に足をつけて生きていくほうが良い」という、多くの人が親から200回以上言われたことのあるところに着地しており、自分の人生が着実に「終わり」に向かっていることを実感することも増えてきた昨今では、そうした「普遍」こそが人間社会を支えているものであり、その退屈さに愛おしさすら感じるようになってきました。

とはいえ、それがやはり退屈だと感じるヤンチャボーイはまだ心の片隅に残っていて、十中八九「普遍」に辿り着くものであるというのは理解しつつも、藪をつついて蛇を出したうえでキャッキャできるんじゃないかという淡い期待を込めて、今回は「空気が読めない人」について書いていきたいと思います。

超長いです。

1.「空気を読む」ということ

【1】「空気を読む」という表現が一般に使われだしたのはいつ頃かはわかりませんが、その話をする際、『空気』の研究(山本七平著)という50年近く前に発表された本の存在がよく挙げられます。また、それ以降も「空気」について言及した書籍や研究は数多く発表されており、それらの悩みを取り扱ったWeb記事だけでなく、Wikipediaの「場の空気」という項目ですら妙に充実しているなど、もう十分に語り尽くされた感のあるテーマではあるのですが、その先にあるのは「空気に流されない確固たる自分を持て」とか「社会経験を積んでコミュニケーション能力を高めよ」みたいな、大体どんなことにも当てはまる「それができりゃあ苦労しないんだよ」っていう定番のお説教になってしまうので、今回はもう少し具体的な対処方法などについて考えてみたいと思います。

【2】「空気が読める」または「空気が読めない」という言葉が表す状態を「空気」という言葉を使わずに考えてみたとき、恐らくそれは「文脈」や「不文律」などの言葉に置き換えることができるかと思います。そして、それらは往々にして「明示しないこと」をある種の美学とすることで成立しているような、言い換えるとそれを明示させようとすることは「野暮」とされるような性質のものであり、「空気を構成する何らかの文脈を明示しようとすることは野暮である」と言えます。

例えば仲間同士が目を合わせてニンマリとしている=何らかの「空気」を読んで行動しようとしているところで「えっ?どういうこと?」と聞くと「空気読めや」と指摘されるような場面は身近な生活の中でよく存在していて、そのニンマリが意味するところである「空気」を「あなた方は今からエッチなお店に行こうと思っているんですね」と明言することは「野暮」だと捉えられます。

このケースの場合、例えば目を合わせてニンマリしている人たちの間には「前回の飲み会では二次会としてエッチなお店に行ってめちゃくちゃ盛り上がった」とか「別の時間/場所において『今度はエッチなお店に行こうね』という会話が交わされていた」という過去の文脈が存在しており、それらは現在の場面だけを切り抜いた場合に他者からは不可視のものとなります。

こうした「何らかの意図に基づいて、そこに至る過去の情報=文脈が不可視のままに共有されている状態」が「空気」であり、それらを明示しようとすることが「野暮」とされて好ましく思われないのは、その「不可視にしておこうという何らかの意図」を無視する行為であるからだと思います。

逆にこの不可視の情報を「詮索せずに不可視のままにしておくこと」や「察しがついた、もしくは知っていても明言しないこと」そして「不可視の状態を維持した状態でコミュニケーションができること」が「空気が読める人の行動」であると言えます。

【3】この不可視の情報については明示されていることのほうが稀で、それについて子供のように「なんでなんで?」と詮索したところで「まあ、そのへんは、ほら、ね?」とはぐらかされることの方が多いです。

これらがはぐらかされる理由は「後ろめたいから」であって、前述の「エッチなお店に行こうね」の例で言うと、「では我々は辛抱たまらんのでヌキヌキポンしてきます」と公然に言える人はそんなに多くないですし、更には「お前たちもそうだろ!?な!」と隣の人の肩を抱くようなところまでできる人はかなりの「いごっそう」です。

惰弱な現代人にそんな気合の入ったことができるわけないですし、それをやったとてドン引きされたり迷惑がられるイメージが容易に想起されるので、本音としてはヌキヌキポン希望であっても、わざわざそれを公然と明言することに後ろめたさを感じるのでしょう。

そういう後ろめたさを伴う性質の話題は、エロい話だけでなく、金の話や誰かの悪口など多岐に亘り、それらについて完全にクローズドな状態でない場面において話す際には「空気」を運用して伝達するケースがほとんどだと思います。

【4】しかし、これらのように「恥ずかしい」や「デリケートである」というニュアンスで「後ろめたい」というのも、それらが恥じるべきものであるという「文脈」が共有されている文化圏においてのみ通用する話であって、例えば銭湯で「ちんちんを見られるのは恥ずかしい」というのと「逆に隠してる方が恥ずかしい」みたいな価値観が両方存在するように、事象ごとに固有の価値観が存在するわけではないというのが、「空気を読む」という行為を高度化させている大きな要因です。

更には「最初は恥ずかしいから隠してたけど、フルチンで堂々としてるアイツを見てると何だか隠してる方が恥ずかしくなってきた」みたいな感じで、その空気が流動的に変わっていくケースも多々あって、一度把握したからといっても、次の瞬間それが通用するかわからないという特性もあります。

そして、不可視で不定形で流動的という点において、「空気」というネーミングは極めて適切で、行為としてはゴルフにおける「風を読む」とかサーフィンにおける「波を読む」に近いものだと思いますし、それらは一朝一夕で習得できるものではなく、体験をベースとして自分の中で理解を体系化していくのが主な習得方法であるというのも同じです。

【5】ここまで考えてみると、子供が往々にして空気を読まない発言で周りの大人を微笑ませたり困らせたりしているのは、単純に経験不足からくるものであると理解できますし、幼児教育の基礎となる発達段階理論に当てはめて考えてみても、脳の発達と共にさまざまな体験を経て「空気」という抽象的な存在に対する理解を深めていくものなんだと思います。

で、別に専門家でもないので、これまでそれに触れるのは避けてきましたが、ここまで話が進んでくると流石に発達障害に触れる必要があると思います。発達障害(自閉症スペクトラム障害、学習障害、注意欠陥多動性障害)というのは、先天的な脳機能の特性により、社会生活においてさまざまなミスマッチを引き起こす障害として知られていますが、実生活においては主に「社会年齢(社会において実年齢に相応のものとして求められる立ち振る舞いなど)に応じた他者とのコミュニケーションが困難」という状態によって、発達障害であると疑われることが多いです。

この「社会年齢に応じた他者とのコミュニケーションが困難」というのは、言い換えると「社会年齢と実年齢が伴っていない」という状態であり、発達段階の図における具体的操作期や形式的操作期といった段階に応じた発達ができておらず、結果として年齢相応の「空気を読む能力」が習得できていない状態であると言えます。

そして、「裸の王様」において王様が裸であることを指摘するのが子供の役割であるように、「空気を読まない言動」は一般社会において「大人げない」とか「幼い」という印象を与えることが多いですし、「裸の王様」が古くから語り継がれる話であることが示す通り「正常に発達した大人とは空気を読むものである」という前提は今も昔も変わらず存在しています。

発達障害のある人物においては、この「大人なのに空気が読めない」というのが、コミュニケーションを困難にする要因であり、子供のころは許されていたそれが周囲の成長とともに徐々に乖離していくという流れの中でその障害が顕在化するケースが散見されます。

【6】ただ、発達障害はあくまでも空気が読めない要因の一つでしかありません。そして、発達障害がそういった「空気を読めない」という特性を併せ持ちやすいというのは広く知られていることではあり、徐々に社会もそういう人に対して「まあそういうもんだしな」と寛大になりつつはあります。

実際に周囲の理解を得て、普通に社会参加している方も沢山おられますし、そういった特性への理解の必要性について、現場レベルでも受け入れようとする取り組みは増えてきてはいるので、「発達障害の特性によって空気が読めない」というのは、時に周囲を驚かせたり困らせたりすることはあったとしても、そういった特性を持つ存在をその特性故に糾弾することは良くないという倫理観の基礎は既に現代社会に存在していると思います。(もちろんそれが広く遍く浸透し、すべての場面において実践されているかは別ですが)

それでも尚「空気が読めない人」が糾弾されたり、嫌われたりする理由について考えてみると、発達障害という理由だけに起因しない「空気の読めなさ」が存在しているからだと思います。

次の章では「空気が読めない言動に至る経緯」について書いていきます。