アマギフ1000円を払ってエロ電話する約束をしたのにドタキャン・ブロックしてきたパパ活女子にエア説教してみた




ここからの目次は以下の通りになります。

・ラクになるために、全部自分のせいにする
・人間関係の不満は全部自分のせい
・人間関係以外の不満も自分のせい
・変わらない勇気
・人類を見渡せば
・浮気したパートナーに怒る人は、パパ活女子にキレたぼくと同じ
・自分のせいにするかしないかは自由
・実践編
・ロロノア・ゾロに学ぶ、不幸を消す方法
・人間とは

 

ラクになるために、全部自分のせいにする

「自分がどうするかだけを考える」というのは言い換えると、

「不満や不幸を全部自分のせいにする」

ということになると思います。何故なら、「自分がどうするかだけを考える」ということは「自分がどうにかすればその不満を解消できる」ということであり、つまり「自分がどうにかしていないせいでその不満がある」と言えるからです。

こうやって考えていくのはある種すごく厳しい生き方ではありますが、実はな生き方であるとぼくは思います。

「そういえば中学生の時に姉から借りて読んだ『僕等がいた』って少女漫画にそんなセリフがあったな……」と思って読み返してみたら、こんなページが見つかりました。

_

『僕等がいた』 1巻 より引用

これは本当に真理だと思います。

この女の子のように「逆でしょ?」と思った人もいるかもしれませんが、それは最初だけではないでしょうか?

ぼくも、人のせいにしていたものを自分のせいにするのは最初はすごく辛いです。でもそこを乗り越えて一旦自分のせいにすることができれば、あとは「自分のせいなら全然理不尽じゃないな! 頑張ればいいだけなら頑張ろ!」とカラッと思うことができます。そしてそう思えればあとは、頑張ってその不満を解消すればいいだけです。

つまり、世の中にはこういう法則があると言えると思います。

 

「自責できればできるほど、人生はラクになる」

 

だからぼくは、途中に書いた「自己利益を追求する」というのと同じ発想で、人生をラクにするためにできるだけ全部自責していきたいのです。

※「自責」という言葉には「自分を責めること」と「自分に責任があると考えること」の2つの意味がありますが、この記事では後者の意味として使います。別に自分を責める必要はないと思うので。

 

先ほど言った、

「社会に生きる他人は情ではなく利で動いており残酷である。その他人をコントロールすることは難しいので、何か嫌なことをされた時、その他人を変えることではなく自分がどうするかだけを考えるべきである」

この考え方をもっともっと突き詰めれば、徹底的に自責できる超ラクな人生を歩むことができます。

 

人間関係の不満は全部自分のせい


まずは、友達。
ぼくはこの記事で、「社会に生きる人たちは学校の友達ではないのだから親切にしてくれなくて当然だった」というようなことを言いましたが、本当は友達だって親切にしてくれるとは限らないのです。

これにはすごくいい話があって、半年ほど前、ゆたぼんがこんなことを言っていました。

「クラウドファンディングしてるんやけど支援が全然集まらへん。こっちがLINE送ってるのに向こうは既読スルーする人も多くて、結構傷ついてます。自分の都合いい時だけLINEしてきて、こっちがホンマに困っている時は無視してくるなんてホンマの友達じゃないと思うし、そのへんもハッキリさせるチャンスやと思っています」

そんなゆたぼんに対し、DJ社長がこんなメッセージを投げかけました。


これはさりげないようですごく深い言葉だなとぼくは思いました。

友達は会社や社会の人と違って基本的に情で動く関係だとは思いますが、それでも根底にはやはり利があります。あくまで利があるから繋がっていて、その利の上に情が乗っているだけです。

友達だからといっていつでも助け合うわけではありません。利と情のバランスを考えて、助けたいと思ったら助けるし、助けたくないと思ったら助けない。そういうシビアさが友達関係にも存在しています。助けを求めた時に友達が応じてくれなくても、「しょうがないか!」と思わなければなりません。

(ちなみにゆたぼんはこの後、「DJ社長のおかげで自分が間違っていたことに気づけました」と言っています。ぼくの半分以下の13歳という年齢でそう言えるようになったゆたぼんは本当に凄いと思います。)

 

こう考えていくと、恋人関係にも同じ理屈が当てはまります。

恋人関係においては「どうして返信してくれないの!」とか「どうして心配してくれないの! 私は心配してあげたのに!」とかいう風になりやすいと聞きますが、恋人関係だって根底では利で繋がっていると言えるでしょう。

ぼくは本当にまだ誰とも付き合ったことがありませんが、いつか恋人ができた時は、相手に不満があっても全部自分のせいにしようと思います。

 

あと残っているのは家族ですが、ぼくの家族は、母親が心配性だったり父親がウザかったりするもののみんな情で接してくれるので、自分のことを考えるこの章では問題視しないことにします。

 

また人間関係の悩みには単に「情で接してもらえない」だけでなく「攻撃される」「支配される」などもありますが、そういう言動とは距離を取ればいいだけです。

というわけで、人間関係の悩みは全部自分のせいにしようと思います。

 

人間関係以外の不満も自分のせい

人間関係以外の不満もひたすら自分のせいにすることができます。

アメリカの哲学者が提唱した「幸せの正方形」という、「幸せは『愛』『お金』『自己表現』『健康』の4つに分類できる」という考え方を参考にして分類してみると、以下のようになると思います。

愛……人間関係のことなのでこれまで話した通り。
お金……正しい方向で努力すれば誰でもお金持ちになれる。
自己表現……好きなことを仕事にしたりフォロワーを手に入れたりすれば満足にできる。
健康……余裕を作って適切な努力をすれば健康になれる。

という具合に全部自分でなんとかできる……と言いたいところですが、「健康」だけはやはりどうにもならない場合が多くあると言わざるを得ません。事故に遭ったり不治の病になったりすれば、努力ではどうにもならない不健康に悩まされ続けることになるからです。健康だけは、「100%運によって決まってしまう上に不可逆」という場合が多くあります。

ぼくは生まれつき身体一級の内臓の障害を持っていますが、これも100%運によって決まってしまった上に不可逆なものです。ほとんど普通に日常生活は送れていますが、人にはない苦痛や不便さがそこそこあります。

でも一応、ぼくはその不運を受け入れられています。「ハズレくじ引いちゃったなぁ。でもまぁこれも自分の運命だと思って引き受けて頑張るしかないか」と思えています。

ただそれは、不便ではあるものの日常生活はほぼ普通に送れているからです。ぼくは日常生活を普通に送ることが永久にできなくなることが何よりも怖いので、もし失明したり半身不随になったりしたら、正直全く受け入れられる気がしません。

「日常生活を普通に送ることが永久にできなくなること」というのを短く言い換えたら、「致命的な不可逆」となるでしょうか。これには病気や事故の他に、「逮捕」と「罪」が思いつきます。

たとえば「車で誤って複数の人を轢き殺して終身刑になる」とかは受け入れられる日が来るとは思えません。もはや100%自分のせいであっても「仕方ない」とは到底思えそうにないです。

そういうわけで現時点でのぼくの目標は、

 

「致命的な不可逆以外は全部自分のせいにして『仕方ない』と思うようにする」

 

です。これができるようになれば、致命的な不可逆に遭わない限り、ぼくの人生からは怒りも争いも完全に無くなります。

友達に恩を仇で返されても、詐欺で全財産騙し取られても、ネットで炎上して袋叩きに遭っても、全部自分のせいにする。「仕方ないか」と思ってラクになるために、そういう人間になってみせます。

 

変わらない勇気

とはいえもちろん、いきなりそこまで達観するのは無理です。先ほど言ったように自責するには最初にものすごい労力が要るので、その労力に耐え得る強さを身につけなければなりません。ラクになるには強さが必要なのです。
『僕等がいた』の男の子は「ズルいんだ、オレ」と言っていましたが、ぼくは彼は、ズルいのではなく強いのだと思います。

ぼくはすぐにはめちゃくちゃ強くなれないので、中盤で言った通り今でも、フォロワーに心をかき乱されてつい言い返してしまうことがあります。まだまだ修行が足りません。

久保たかしのサブ垢のツイート より

でも、今はこれでいいのです。以前より頻度が減っていれば十分合格だと思っています。

思うに、変わりたいと願う時、人には「変わる勇気」と同時に「変わらない勇気」が必要なのです。「変わろうと決意したのに変われなかった」と落ち込んでしまうと、変わるモチベーションが下がってしまうので。

変われなかった時、「まぁしばらくはこんなもんでしょ! しょうがない!」と、変われていない自分を受け入れる。そうやってモチベーションを下げずに、変えられる部分を徐々に増やしていく。それが変わるコツなのではないかと思います。

 

人類を見渡せば

ここまで色々なことを考えたぼくは、世界の見え方が一変してしまいました。何を見ても、何を聞いても、何を感じても、いつも「自分のせいにする」という軸に照らし合わせて考えてしまうようになったのです。そうすると、こんなことを思うようになりました。

 

「『大体全部自分のせいにする』って、ほとんどみんなできてなくないか……?」

 

と。

Twitterを開けば、いつも無数の人が愚痴を言ったり人と争ったりしています。YouTubeを見ても、社会的に大成功を収めた人が顔を真っ赤にして怒っています。

そういうのを見て、「自責できていればそんなことしなくて済むのに……。人類は今日も愚かなことをしているなぁ……」なんてことを思うようになってしまったのです。

クソ生意気なのは分かります。「いきなり神様目線かよ」と自分でも思います。ぼくはずっと誰よりも他責ばかりしてきて、27歳にしてやっと自責の大切さに気がついたから「自責が大事!」と急に1人で盛り上がって張り切ってイキり始めただけのクソガキですし、ほとんど人に会わずに象牙の塔に篭って高みの見物をしているだけの楽な身分です。

それに先ほど言った通り、まだまだ自分も全然自責できていません。ランニングしようとした日に雨が降っただけで「雨降るなよ!」とキレて自分ではなく天気を変えようとするぐらい自責できない人間です。
そのことはよく分かっているのですが、それでも、他人に対して「自責できてないなぁ」と思ってしまうのは事実です。

そしてそれだけではなく、ぼくは、「みんなにも自責できるようになってほしいなぁ」とも強く思っています。

何故ならすでに言った通り、ぼくは「利他心から人を変えたい」という気持ちが非常に強い人間だからです。自分が以前よりは劇的に生きやすくなったマインドをみんなにも伝えて生きやすくなる人を1人でも増やしたいと、どうしても思ってしまうのです。

なのでここからは、「自責してみませんか?」とこれを読んでくださっているあなたに偉そうに訴えかける内容になります。

ただその前に、1つお伝えしておくことがあります。実はこの「全部自分のせいにした方がいい」という考えは、ぼく1人で辿り着いたものではありません。一冊の本を参考にしました。『嫌われる勇気』です。

『嫌われる勇気』

大ベストセラーなので知っている人も多いと思いますが、これはアドラー心理学の教えを小説形式で分かりやすく説明している本です。簡単に言うと、

「人は誰でも今この瞬間に幸せになれる」
「すべての悩みは対人関係の悩みである」
「人は目的のために怒りを捏造する」
「対人関係のカードは自分が握っている」
「課題の分離をすれば対人関係の問題はほとんど無くなる」
「『いま、ここ』に集中せよ」

といったことが書いてあります。

ぼくはこの1年間、この本をじっくりじっくり読んでいきました。最初は「そんなわけないだろ……暴論だ……」と思って全然納得できていなかったのですが、「試しに1回違うやり方を試してみよう」事件をきっかけに、この本の教えが一気に分かるようになったのです。

その結果世の中の見方が180度変わり、「アドラー心理学最強すぎないか……? これ極めたらマジで人生から悩みなくなるじゃん……」と感動したので、この喜びを他の人にも伝えたいと強く思いました。

しかし普通に真面目に書いても仕方がないので、パパ活女子にドタキャン・ブロックされた事件を切り口にして、自分の様々な体験をもとに、自分の言葉でアドラー心理学から得た学びを伝えたい……実はそう思ってこの記事を書いた次第です。

とはいえ自己流な解釈をしたりアドラーとは全く関係ない考えもたくさん書いたりしているので、「一部にアドラー心理学を参考にしているらしいぞ」ぐらいのつもりで読んでもらえればと思います。

この解説記事ではここまでずっと徹底して、「アイメッセージ」を使ってきました。狂気の記事を読ませ、実際に他責ばかりしていた自分が「あなたも自責をしませんか?」などと言ったって反発されるだけだろうと思ったからです。でも最後に、自分以外を主語にして話してみたいと思います。

生意気に思われるでしょうが、嫌われる勇気が大事なので気にしないことにします。それに、ぼくが生意気かどうかは本来どうでもいいことです。あなたが自分の利益を最大化するには、「この男から何を吸収したら自分の得になるか」だけを考えればいいのですから。「こんなやつの言うことなんて聞きたくないし」などと考えてしまっては自分の損になるだけです。

 

浮気したパートナーに怒る人は、パパ活女子にキレたぼくと同じ

浮気したパートナーに怒った経験が、あなたにもきっと1回ぐらいあるでしょう。「『絶対に浮気しない』って約束したのになんで浮気したの!? 最低!!」と。

そのマインドは、構造的にはパパ活女子にキレたぼくと全く同じだとぼくは思うのです。

ぼくは「電話するって約束したのにブロックするなんて最低!」と怒りました。それを見てあなたはきっとこう思ったでしょう。

「いや、そんな約束破りたきゃ普通に破るでしょwww 相手に怒るよりそんな人にしか縋れない自分を見つめ直せよwwww」

と。
もちろんレベルは全く違いますが、構造的には同じことがあなたにも言えます。

「いや、『絶対に浮気しない』なんて約束、破りたきゃ破るでしょwww 相手に怒るよりそんな人にしか縋れない自分を見つめ直せよwwww」

と。

つまり、「超ヤベェこいつwww どう生きたらこんなヤツになるんだwww」と笑う対象だったぼくにあった未熟さと同じ種類の未熟さがあなたにもあると、理論的には言えるということです。

これはもちろんなかなか厳しいレベルの話ですが、この調子で突き詰めていくと、こういうことを言うことが可能になります。

 

「人が私憤を抱くのは大体全部、自分のせいにできていないせい」

 

と。

だって、自分のせいにできていれば「仕方ない」と思えて腹が立たなくなるはずですから。「ではどうすればいいか」ということを冷静に考えればいいだけです。つまり、「怒り」は「弱さ」なのだと思います

ちなみに「私憤」と書いたのは、公憤(正義感から発する公共のための憤り)のために怒るのはそうではないと思うからです(心理学的には私憤も公憤も同じだとする考え方もあるようなのですが、専門的すぎるのでこの記事ではそこまで難しいことは考えないことにします)。

こう考えていくと、貸したお金を返してくれない友達に腹が立つのも、パワハラしてくる上司にムカつくのも、Twitterでクソリプしてきた人と喧嘩してしまうのも、税金をたくさん取ってくる国を恨むのも、全部、自分のせいにできていないせいだと理論的には言えます。

 

自分のせいにするかしないかは自由

「理論的には言える」と書いた通り、ぼくは実際にあなたにそんなことは言いません。なぜなら、「自分のせいにする」というのは、自分がやりたければやればいいものであって相手にやらせるものではないと思うからです。

ぼくは自分のせいにした方がラクになると思うので自分のせいにしますが、あなたは自分のせいだと思わなかったり自分のせいにする方がキツかったりするのであれば、自分のせいにしなくて全然いいと思います。ぼくはそれを一切強要しません。

また、先ほどまではアイメッセージのみ使っていたので「自分のせいにする」とか「自分が悪い」とかいう言葉の意味を曖昧なままにしてきましたが、ここからはユーメッセージを多用するのできちんと説明しておきます。

ぼくが言っている「自分のせいにする」「自分が悪い」というのは、「相手が0%悪くて自分が100%悪い」と考えることではありません。

「相手の非を一切考えずに、自分ができる改善の余地だけを考える」

ということです。

例えばあなたが、「デブ」とバカにされて怒っているとします。この時、大事なことなので太字で書きますが、非の割合で考えるとバカにしてくる方が当然100%悪くてあなたは一切悪くありません。仮にあなたが怠惰によって太っているとしても、容姿をバカにして良い理由はありません。当たり前のことです。

しかし「相手の非を一切考えずに自分ができる改善の余地だけを考える」ようにすると、例えば、

・ダイエットをして痩せる
・「デブ」とバカにしてくる人との関係を断つ
・「デブ」と言われても気にしないメンタルを作る

などが改善の余地として考えられます。その改善の余地を埋められていないのが「自分のせい」ということです。

ここで「被害者を責めるなんて酷い」と思う人がいそうなので繰り返しますが、ぼくは責めていません。「『自分のせい(=改善の余地がある)』と思いたいなら自分のせいと思ってみたらどうですか?」と言っているだけです。自分にとって都合の良い方を選べば良いと思います。

先ほど「『自責』という言葉はこの記事では『自分に責任があると考えること』の意味として使います」と言いましたが、その「責任」というのも、「改善の余地をどうするかは自分にかかっている」みたいなニュアンスのつもりです。

「相手のせい」と考えて、自分ができる改善の余地に目を向けずに相手の変容を目指したいのであれば、そうして全然いいのです。実際相手が悪いわけですから、その選択は何も間違っていません。
ただ、「間違っていない」ことと「自分が楽になれる」ことは別です。これは善悪ではなく損得の話です。

ぼくは損得で考え、自分が楽になれる方を選びました。この2年ほどデブと言われるようになって、怒って相手を変えようとしていた時期があったのですが、「まぁ怠惰な生活をしていたぼくが悪い(改善の余地がある)から仕方ないか」と考えたお陰で、怒りがスッと引いていったし、ダイエットを頑張ることができるようになったのです。そういう風にしたらバカにする人も自然と減ってすごく楽になりました。

でも、別にぼくが特別偉いわけではありません。ぼくがこういう思考回路を身につけられたのはほとんど幸運によるものだからです。

また、自分のせいにしても「仕方ない」と思えない不幸や、どう考えても「自分のせい(=改善の余地がある)」と思えない不幸も存在すると思います。そういう不幸に遭っている人が自分のせいにしていないからといって、誰が「自分のせいにしなきゃ駄目だよ」と言えるでしょうか。

なのでぼくは、

「『人が私憤を抱くのは大体全部、自分のせいにできていないせい』と理論的には言える」

という言い方をします。

「例外なく全部」とは言わないし、「自分のせいにしなければならない」とも言いません。

ただ、個別具体的なケースに言及するのではなくこうやって不特定多数に呼びかける時は、自分のせいにすることの「推奨」はしていきます。先ほど言ったように、ぼくは様々な不幸を自分のせいにできるようになったことで信じられないほど生きやすくなったし、他の人もそうなれるのではないかと思うからです。少なくとも『嫌われる勇気』には「1人の例外もなく誰でもできる」と書いてあります。

ちなみにこれは、「頼れるのは自分だけなんだぞ」ということではありません。人は助け合うものですから他人の助けはもちろん期待していいですし、ぼくも他人の手助けは精一杯するつもりです。ぼくが言っているのは、「人に助けを求めるのと同時に、自分ができることはやっておいた方がより生きやすくなるんじゃない?」ということです。

しかしすでに言った通り、ぼくがそういう発想を得たのは実践によって悟ったからなので、分からない人はこの記事を読んでもずっと全く意味が分からないかもしれません。

 

実践編

そういうわけでとにかく実践あるのみだと思うので、この記事を読んだあと実践しやすいように、具体的なケースを想定してみます。

あなたの大嫌いな父親から、あなたにこんな電話がかかってきたとしましょう。

「そろそろいい男は見つかったのか? 『自分は結婚したくないんだ』ってお前はいつも言うけどな、独身なんて絶対つまらないぞ。一生孤独だぞ」

まずは普通のやり方を想定してみます。普通の人であれば、例えばこんな感じの展開になるでしょう。

あなた「余計なお世話って言ってるでしょ! いい加減そういうこと言うのやめてくれる? 何回言ったら分かんの?」

父「なんだその言い方は! こっちはお前のためを思って言ってるんだぞ!」

あなた「はあ? 私のためじゃなくて自分のためでしょ? その押し付けほんとウザいんだけど!」

このようにするのももちろん自由です。

でも、どうして父親を変えようとしなければならないのでしょう? どうして、こんなに頭の固い親と不毛な綱引きみたいなことをして自分の感情を乱さなければならないのでしょう? よく考えたら、酷い他人のためにわざわざ振り回されてやるなんて不思議ではありませんか?

そう、別にその綱なんて、あっさり手離してしまえばいいのです。自分のために。そうすれば自分が振り回されることはなくなり、ダメージは無くなります。「自分はこんな人のために振り回されないぞ!」という強い決意が大事です。

しかしここで、きっとこう思う人がいるでしょう。

「いや、相手を変えようとする必要はあるだろ。お前は記事の中盤でも『相手を変えようとしなければダメージを負わずに済む』って言ったけど、変えようとしなくたってダメージは負うよ。『一生孤独だぞ』って言われたら普通に傷つくし、そこで相手を変えようとしなかったらずっと同じことを言われ続けて傷がもっと深くなるだろ」

と。

これはぼくもずっと持っていた考えなので本当によく分かります。しかし、今のぼくはこの考えにきちんと反論できる自信があります。

まず第一に、結果のことを考えてみます。
相手を変えようとすることで思い通りに変えられて自分を楽にすることができるならいいのですが、実際にはこじれて自分をもっと傷つけてしまうことの方が圧倒的に多い筈です。したがって、勝算がない限り、自己利益のためにはやはり相手を変えようとしない方がいいということになります。「今より自分を傷つけてでも相手を変えたい」と思うなら、それは「あなたを殺して私も死ぬ!」という破滅的な思考と同じです。

(逆に言えば、勝算があったり、こじれなさそうだと思ったりしていれば相手を変えようとするのは全然アリだと思います)

 

次に、「そもそもなぜ『一生孤独だぞ』と言われたら傷つくのか」という観点で考えてみると、これには2つの要因が考えられます。

 

まず1つ目は、「心が不安定だから」。

「自分は孤独にならない」という絶対の自信があったり、「孤独になっても平気だ」という受容ができていたりしていれば、人に「一生孤独だぞ」と言われてダメージを負うことは論理的にあり得ません。つまり、「『一生孤独だぞ』って言われただけで揺れてしまう自分の心に課題があるな」と思うことができれば、「自分のせい」だと思えて少しラクになれます。

 

2つ目は、「相手に期待をしているから」。

「『この人は自分に酷いことを言わないだろう』という期待をどこかでしているから、その期待を下回られた時にショックを受けて傷つくのだと思います。他人の言動に怒る人は、その人に対する絶望が足りません。

そこで、他人へ期待しないようにするのです。この世には無数の人間が生きており、嫌な人がたくさんいます。自分の期待を下回る人と関わる度にいちいち傷ついたり怒ったりしていてはキリがありません。

だから猿を見るのと同じ目で他人を見るのです。この世を動物園だと思うのです。

 

 

ではいよいよ、理想的な対処方法を書いてみます。実践に役立つと幸いです。

父「もしもし、お父さんだけど」

あなた「(お父さんか……。また「結婚しろ」とか言ってくるんだろうな。いつも感情的になってケンカしちゃうけど、全部自分のせいなんだよな……。よし、今日はお父さんの非を一切考えないで、自分の改善の余地だけ考えてみるぞ。まずは期待値を下げよう。“お父さんは今日は『結婚しろ』って言わないかもしれない”という期待を捨てるぞ……!) ああ、お父さん。何?」

父「そろそろいい男は見つかったのか? 『自分は結婚したくないんだ』ってお前はいつも言うけどな、独身なんて絶対つまらないぞ。一生孤独だぞ」

あなた「(うわ、本当に「結婚しろ」って言ってきた! さすがお父さん、予想通り! 予想当たってむしろ嬉しい! そうそう、こんな風に、お父さんは「結婚しろ」って言っちゃう生き物なんだよね。だからそういう生物として接するしかないな。でもよく考えたら、この習性はどうやってできたんだろう?)いや〜、まだ男見つかんないんだよね〜。てかさ、お父さんって『独身は一生孤独だぞ』っていつも言うけど、情報源どこなの? 独身でも楽しく過ごしてる人なんて今時たくさんいると思うけど」

父「ん? 情報源というか、お父さんがそうなんだよ。お母さんに離婚されてからずっと孤独で寂しいんだ」

あなた「(なるほど、自分自身が孤独で寂しいから『結婚しろ』って言う習性を持つ生物になっちゃったのね。興味深いわ〜。私は自分が寂しくても人に考えを押し付ける生物にはならないようにしよ! 『相手のため』とか言って自分の欲求を満たそうとするの最低だもんね。
そんで生物の習性は変えられないから、私は自分の行動にひたすら集中しよう! 本来だったらこんなめんどくさいこと言ってくる人とは関係を切るところだけど、家族だから流石に絶縁はしたくないな。どうせ関わると決めているなら、なるべく自分にとって得になる関わり方をしよう! そうだ、お父さんの恋バナでも聞けたら楽しいかも!) お父さんさぁ、離婚してもう10年でしょ? 誰かいい人いないわけ?」

父「な、何を言ってるんだ。再婚なんてしたらお前が悲しむだろう」

あなた「え、何言ってんの? 全然気にしないし、むしろ嬉しいんだけど!(そうすれば私にもめんどくさいこと言ってくるの減るだろうし)」

父「え、そうなのか? 実は行きつけの居酒屋の店員さんが綺麗で、最近気になってるんだ……」

あなた「え、マジで!? 詳しく教えて!!」

これであとはもう楽しい時間になります。嫌な思いをする原因は自分にあると考えて自己利益を追求すれば、嫌いなはずの父親との電話の時間を苦痛なものから楽しいものに変えることができるのです。

ぼく自身、父親のことが嫌いで父親と会話する時はいつも不機嫌だったのですが、この前会った時に「自分にとって楽しい時間にする努力をしよう」と考えて今書いたようなことを本当に実践してみたら、これまでと全く違う時間になりました。今まで気づかなかった父親の良い部分にたくさん気づいて、本当に楽しく話をすることができたのです。

 

父親はバングラデシュ人です

嫌な人も自分の努力次第で嫌じゃない人にできるんだなと、ぼくは身をもって知りました。

「そんなこと自分にはできないよ」と思うかもしれません。そういう人は、酷い言い方にはなるのですが、「この人をどのように利用してやろうか」という視点で考えればやりやすいと思います。

最悪の場合、他人を、自分を幸せにするコマだと考えればいいです。

悪の大魔王みたいな考え方ですが、こういう考え方を持った方が結果的にその相手に対して優しくなれると思います。人から優しくしてもらうには自分が優しくしなければならず、自己利益を追求していくと、どうやったって人に優しく接しざるを得ないからです。

逆に言えば、嫌な人に振り回されているうちは、その嫌な人を人間として尊重しているということです。嫌な人なんですから別にコマだと思えばいいじゃないですか。

「そんな考え方をしていったら本当に悪の大魔王になってしまう」と心配してしまうかもしれませんが、たぶん大丈夫です。人間性というのはそんなに簡単には無くならないですし、優しく接していくうちにいつの間にかその相手を好きになって、自然と尊重できるようになりますから。

『嫌われる勇気』に、「傾向性」という話があります。人間の本能的な欲望、衝動的な欲望のことを「傾向性」と言うそうです。

「欲望や衝動のおもむくまま生きること、坂道を転がる石のように生きることが『自由』なのかというと、それは違います。そんな生き方は欲望や衝動の奴隷でしかない。ほんとうの自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度なのです。

(中略)われわれは石ころではありません。傾向性に抗うことができる存在なのです。転がる自分を停止させ、坂道を登っていくことができるのです。

『嫌われる勇気』 161pより

欲望や衝動のままに「父親なんて嫌いだ」と感じ不機嫌になっていた自分は、坂道を転がってボロボロになっていました。でも頑張って傾向性に抗ってみたおかげで、「ほんとうの自由」を手に入れることができたのです。

つまり、人生は傾向性との勝負なのだと思います。

では、その勝負に対してどういう心意気を持って臨むべきなのでしょうか?
ぼくはそのヒントを、ONE PIECEのゾロに見つけました。

 

ロロノア・ゾロに学ぶ、不幸を消す方法

ゾロは、どれだけ大変な目に遭っても絶対に泣き言を言いません。例えばこのシーン。

『ONE PIECE』 50巻 より引用

これは「巨人との死闘を終えた直後にまた強い敵が来て皆殺しにされそうになる」という本当に災難なシーンなのですが、周りの人たちが「こんなのあんまりだろ!」と嘆いている中、ゾロは淡々と現実を受け入れて対処しようとします。

これは何故かというと、ゾロは世界一の剣豪を目指しており、泣き言を言っている場合ではないからだと思います。世界一の剣豪になる道中には、数え知れないほどの試練が待ち受けているでしょう。運が悪すぎて理不尽に思う場面も当然出てきます。その度に泣き言を言っていたらその間にやられてしまうので、どんなに理不尽に思える場面でもすぐに、「ではどうするか」を考えなければいけないのです。

またゾロは、どんな目に遭っても全て自分の責任だと考えます。これはおそらく、そう考えないと他責してしまって、それが泣き言や嘆きに繋がり勝負に負ける確率が高くなるからでしょう。だから普通なら誰もが他責したくなる場面でも、「(これで)死んだらおれはただそこまでの男」と言うわけです。

この生き方は非常に厳しいですが、やはりラクなのだろうと思います。それが象徴的に描かれているシーンがあります。

負けたら仲間を取られるゲームに参加したルフィたちが1回戦で負けてしまい、敵の海賊団に取られて大泣きするチョッパーをゾロが叱り飛ばすシーンです。

 

33巻 より引用

この厳しさは尋常ではありません。チョッパー自身が負けたならともかく、仲間が負けたせいでチョッパーは敵の海賊団に行かされてしまったわけですから、嘆いて当然です。でもゾロは、「自分にコントロールできない悲劇も自分の責任にしろ」と言ってきたわけです。

(これはリアルで言うなら、「上司の失敗を押し付けられてクビにされた」と騒いでいる人に「自分の責任だろ!ガタガタぬかすな!」と叱るみたいな話です。Twitterなら確実に炎上します。)

ゾロのこの哲学の萌芽は、幼少期のエピソードに見て取れます。

 

1巻 より引用

おそらくこの時に、ゾロの哲学は固まったのです。勝負をする人間は自分にコントロールできないことも含めて、何一つ泣き言を言ってはいけないのだと。

ゾロの自己責任論はある種の暴論と言えると思いますが、この暴論を聞いたチョッパーはどうなったでしょうか? 続きはこうなります。

 

33巻 より引用

自分の境遇を受け入れて、泣くのをやめたのです。「勝負を黙って見届け」ることにしたのです。

この「勝負」とは、2回戦を戦うメンバーの勝負のことですが、同時にチョッパー自身の勝負でもあります。自分の責任で麦わらの一味の船に乗った以上、仲間の勝負によって自分の運命が左右されるなら、仲間の勝負の結果は自分の勝負の結果と言えるからです。
チョッパーは世界一などは目指していませんが、海賊として海に出た以上、勝負をしています。これはもちろん、誰かとの勝負という意味ではなく自分自身の運命との勝負という意味です。

勝負をする人間は自分にコントロールできないことも含めて、何一つ泣き言を言ってはいけません。

だからチョッパーは、自分の傾向性とも勝負をすることにしました。普通だったら転がって泣き出してしまう急すぎる坂道と必死に戦うことにしたのです。そして見事に勝って、泣き止みました。

このシーンを見て、ぼくは思いました。

「この瞬間、チョッパーは不幸ではなくなったんじゃないか?」

と。

泣いている時は自分の境遇を嘆いており大きな不幸を感じていたでしょう。でも必死に傾向性に抗って「自分の責任だから仕方ないか」と受け入れてしまった後は、同じ境遇にあっても不幸とは感じていない筈です。

 

つまり、不幸とは、「苦境」ではなく「嘆き」なのです。

 

よく「どんな状況でも解釈次第で幸せになることができる」みたいなことを聞きますが、これは本当にそうなのだと思います。

ここまでのことをまとめるとこうなります。

・不幸とは「嘆き」である
・「嘆き」は、「自分の責任」にしていないことで生じる
・自分との勝負を100%真剣にする人は、全てを自分の責任にする

したがって、こういう結論を導き出すことができます。

 

 

「不幸は、闘志で消すことができる」

 

 

まさかの結論になりました。
実はこのゾロの話は当初6行くらいで終わらせる予定だったのですが、記事が公開される2日半前にふと「ゾロの哲学って思ったより深いぞ……もっとちゃんと考えよう」と思って、でもどう言語化すればいいか分からなくて頭を抱えながらなんとかかんとか書き進めたので、こんな結論になって自分で驚いています。

しかしこれは我ながらかなり良い発見というか、納得度が非常に高い考えです。

ぼくは「全部自分のせいにしよう」と思うまで、「どんな状況でも解釈次第で幸せになることができる」という説を聞く度に腹が立っていました。

「それはお前が恵まれてるからそう言えるだけだろ! ぼくと入れ替わってみろってんだよ。お金なくて自己表現できてなくて恋人もいなくて童貞なんだぞ。こんな状態で解釈変えるだけで幸せになるって絶対無理だろ」とずっと思っていたのです。

でも最近、そんなぼくでも不幸を全然感じない時があるなと気づきました。努力している時です。

例えば、ダイエットをするためにランニングをしている時。お金がなくて自己表現できてなくて恋人もいなくて童貞なのは変わっていないのに、ランニングをしている最中はどの苦境も嘆いていないのです。

これは一見「自分の責任にする」とは無関係で単に「気が紛れている」だけかなと思ったのですが、おそらく違います。
何故なら、単に遊んだ場合は、その最中は楽しくてもその時間が終わったら惨めな気持ちになって不幸を感じますが、ランニングの場合は終わった後もしばらくの間、達成感で最高に幸せな気分になるからです。

これは、「努力」という「自分との勝負」をし、「自分の責任」ときちんと向き合ったからだと思います。よく「人生は自分との勝負だ」と言いますが、海賊でなくても誰もが戦いのフィールドにいるのです。誰もが自分の人生と戦っているのです。

(なので、ぼくのLINEスタンプに「ぼくは今月、自分の人生に勝つ」というものがありましたが、あれは意外と深い言葉だったということになります。もちろん当時は浅い考えで作ったので結果論なのですが)。

「不幸は闘志で消すことができる」というのは最高の希望ではないでしょうか? 他人に降りかかった不幸(親しい人を亡くすなど)はまた別であると思いますが、それ以外のどんな苦境に遭っても、闘志を燃やしさえすれば嘆くのを忘れて不幸にならずに済むことができるというのはまるで魔法のようです。

ここで、「いやいや、ゾロはしょせん少年漫画のキャラクターだから真面目に参考にするのはアホらしいだろ」と思う人もいるかもしれません。ぼくも少しそう思ったのですが、ONE PIECEの作者の尾田栄一郎先生のこれまでの発言を色々思い出し調べてみると、驚愕しました。

 

「うまくいったら自分の実力、失敗したら自分のせい。こういうのが好きです」
「他人に頼ろうとするのが一番危険なんだと思うよ」
「なんか苦労話って、どうでもいいなって」
「僕が急に倒れようが原作の事以外は知ったこっちゃないって言う無責任さがあるんです。僕が全てを背負わない」

 

尾田先生はゾロと全く同じようなことを何度も言っていたのです。(最後の言葉は、「他人の人生はその人の責任だ」という意味でしょう。「自分の人生は全部自分の責任」と心から思っていないと出てこない言葉だと思います。)

おそらく尾田先生は、一番人気になる漫画を描くという野望を最初から持っていて、そのために全部自分の責任にすると人生のどこかで決めたのだと思います。そしてその覚悟や考え方を表現したのが、ロロノア・ゾロというキャラクターなのでしょう。

ゾロは世界一売れている漫画を25年以上描き続けている尾田先生の哲学の表れであると思うと、真面目に参考にしたいなとぼくは思います。

とはいえやはり、ゾロのレベルになるのは流石に無理です。ゾロは死ぬことさえも「自分の責任だから仕方ない」と思っていますが、ぼくは致命的な不可逆にはどうしても耐えられません。でも、ゾロを参考に、今よりずっと強い自分になりたいと思っています。

 

人間とは

どうでしょうか、ぼくの伝えたいことが少しは伝えられたでしょうか?

この記事には本当に多くのことを書いてきました。

・社会に生きる他人は情ではなく利で動いており残酷である
・他人を変えることは不可能ではないが極めて難しいので自分を変える方が楽である
・「他人を変えようとしない」というのは「自己利益を追求する」ということである
・「こんな嫌なやつに自分は絶対に振り回されないぞ。良いように利用してやるぞ」という決意が大事
・猿レベルまで他人への期待値を下げ、「今日も元気に猿が鳴いてるなぁ」という風に考える
・「変えられない猿に対して自分はどのように振る舞えば自己利益を追求できるか」と考える
・人が私憤を抱くのは大体全部、自分のせいにできていないせいである
・不幸とは「苦境」ではなく「嘆き」である
・不幸は闘志で消すことができる

これら全てを一言でまとめると、

 

「自分に厳しくできた分だけ、人生は楽しくて幸せなものになる」

 

となります。

「自分のせいにできた分だけ」ではなく「自分に厳しくできた分だけ」としているのは、自分のせいにして「仕方ない」と思えた後も厳しく努力しないと苦境から脱することはできないからです。

つまり、幸せになるにはシンプルに、自分に厳しくなれば良いだけだったのでした。

幸せになるための完璧な法則を見つけられて本当に良かったです。これでもう安心ですね。お互い、自分に究極的に厳しくなって最高に幸せな人生を送りましょう!

……とは当然なりません。これは「それができれば苦労はねぇわ」という話だからです。

そう、長々と語ってきましたが、「自分に厳しくなれば幸せになれる」なんて、よく考えたら当たり前のことなんです。今この瞬間からマシンのようになって100%本気で幸せを追求し始めれば、愚痴を言ったり怒ったりといった無駄なことを一切せず常に最善の努力をし続けて、誰だって1ヶ月後には文句のない人生を手に入れられるでしょう。でもそれができないから、人間なのです。

普段は意識しないですが、みんな本当は心のどこかで分かっています。自分は結局、やるべきことをやっていないのだと。でもそれを自覚して「自分のせい」にしてしまうのは労力が必要で大変だから、そこから目を背けているのです。そして、「自分のせい」にして飲み込むことのできなかった不満のエネルギーは、別の形で消さなければなりません。そこで自分以外に向けて発散されるエネルギーが、「怒り」や「嘆き」なのだと思います。

つまり、人間とは、「自分に厳しくなれないせいで生まれる不満を他に責任転嫁することで解消しようとする生き物」だということです。

 

1年前、このマジスカスクエアガーデンに投稿された「レンタル話し相手スタンプを作ろう」の記事で、筆者のじゃじゃまるさんはこう書いていました。

レンタル話し相手スタンプを作ろう – マジスカスクエアガーデン より

今ならこの意味がよく分かります。1年前のぼくは毎日のように怒ったり泣いたりしていましたが、全ては自分が「やってなかった」せいだったのです。そのことから目を逸らして他責し続けていたぼくの弱さが、あのLINEスタンプには詰まっています。

 

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この時のぼくほど極端な人は多くないでしょうが、どこでも毎日、誰かが何かに責任転嫁をしています。怒って争って、傷ついて泣いています。その姿は愚かで滑稽で、悲しいです。ただぼくは一方で、こうも思うのです。

 

 

「でも、だからこそ、人間は面白いんだよな」

 

 

と。

人が全員自分に究極的に厳しくなって自己利益のみを追求するようになれば、きっと世界は見違えるほど平和になるでしょう。でも、なんだかちょっと物足りなくも感じるはずです。合理的な人しか登場しないドラマや映画なんてちっとも面白くありません。

つまり非合理性こそが、人間の根本的な欠陥であり、同時に、最大の魅力なのです。

ブロックしてきたパパ活女子に本気で怒っているぼくを、あなたが馬鹿にしながら、でもどこかで、愛おしいとも思ったように。

だからもうぼくたちは、人間の非合理性を楽しむしかありません。
そこで、ぼくに「他人ではなくて自分を変えるようにした方がいいよ」と一生懸命教えてくれた堀元さんがよく言っている、人間の非合理性を楽しむための魔法の一言を紹介します。それは、

 

 

「味わい深い」

 

 

です。

「この人、何の権利もないのに私の人生に口出しして怒ってくる! 味わい深い!」
「自分で自分の機嫌が取れてないだけなのに偉そうに私を説教してくる! 味わい深いなぁ!」

という具合に、人間の愚かさを、攻撃性を、分からなさを、「味わい深い!」と心の中で呟いてみるのです。それが、自分が人に怒らずに済む最大のコツだと思います。これが習慣化されれば、「今日はどんな弱さを見せてくれるかな?」と、人間の非合理性をむしろ待ち望むようになってくる筈です。

他人の非合理性は楽しむ。そして自分の非合理性は可能なら自覚して、もし改善したいと思うなら自分に厳しくなってみる。

そうすれば、人生は今よりずっと、ラクで楽しくて、幸せなものになると思います。お互い頑張りましょう。

こんなに長い記事を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。