空気が読めない人




2.空気が読めない言動に至る経緯

【1】「空気が読めない」という事象が、往々にして先天的な障害やその傾向によって引き起こされることは広く知られているにも関わらず、「空気読めやボケ」というヘイトが生まれ続けているのは、単純に障害やその特性への理解が不足しているからだけではなく、そこに至る経緯は抜きにして実際に「空気を読まない言動」を不快に感じる人が存在するからです。

例えば、早く帰ってアッちゃんの家で「がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス」をやりたいにも関わらず、帰りの会で何が植わっているかわからない花壇の保全活動について涙を流しながら熱弁を振るい続ける女子に対して「空気読めや」と思ったことは多くの方がご経験されていると思います。

そこに登場する固有名詞が「がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネス」であったか「ウサギ小屋のピョンちゃん」であったかは定かではありませんが、似たような話はいくらでもあったはずで、大人になった今でも我々はマジでどうでもいい話で会議を引き延ばすやつとか、食べ終わるのが遅くてロットを乱すやつに対して内心で「Guilty」などと苛立ちを感じています。

ただ、これらにおける「空気」は周囲の人々との合意形成を経ていない主観的なものでしかありません。というのも、上述の通り「空気」が機能するのは、第三者からは不可視の状態であれど誰かと共有していることが前提条件であり、実際のところアッちゃんやその友達はお前が毎日来てゴエモンやってるのをウザいと感じているかもしれないですし、事前に約束していたりしない限り「空気読めや」と言ったところで、その「空気」はお前の身勝手な願望でしか無いということになります。

このように身勝手な願望を「空気」という言葉に乗せて押し付ける=空気を支配しようとするというのは、単純に「ワガママな態度」であると言えますし、そういった態度をとる人は往々にして嫌われます。ただ、ある程度社会性が芽生えてくると「自分の願望をただ相手に押し付けるだけ」というのが、社会においては幼稚で嫌われる態度であるということをなんとなく理解していきますし、その上で自分の願望を通すために「あいつは空気を読んでいない」と表現することで、「自分は民意を味方につけている」とアピールしたり、または自分は間違っていないはずだと安心したいんだと思います。

そうやって考えてみると、しっかり事前に合意形成ができていたうえで「空気」を主張する場面はあまり無くて、基本的にはルールとして明示されていなくても「普通はそうするだろう」というその文化圏における共通見解=不文律が「空気」であり、そうした曖昧な存在を他者に押し付けるというのは一種の暴力であると言えますし、事実としてそうした「空気」が暴走した結果、人類史上においてはさまざまな悲劇が繰り返されています。

結局は呂布カルマさんがカマしているように、ひとり一人にリスペクトを持って接すれば「空気が読めない」なんてことは大したことではなく、むしろそういう心の余裕を持てない我々現代人って良くないよね、たたくよりたたえ合おう、AC、という話だと思います。

最後の歌のところ「走れ走れいすゞのトラック」に変えても違和感無いことに気付きました

このように、

・先天的な障害やその特性を理解しよう

・ひとり一人にリスペクトを持って人と接しよう

という2点を踏まえると「空気が読めないのは仕方ないし、それもこの人のペースだし、それにリスペクトを持って向き合おう」が良識的な模範解答であり、本記事もこれにて終了となるところなのですが、残念ながらこの話はそんなに単純ではありません。

ここで問題を複雑にしているのは「人は故意に空気を読まない言動をすることがある」という事実です。

【2】この「故意に空気を読まない言動をする」というケースにはいくつかのパターンが存在します。

例えば、皆が緊張しているときにあえて冗談を言ってみたり、緩みきった場の空気を引き締めるためにあえて厳しいことを言ってみたりという「コミュニティ全体に対して利益を生む目的を伴った、空気を変えるための言動」も「空気は読めているが、あえて空気に反した言動」であると言えます。そして、それがその場にとって有益な空気の入れ替えだったとしても、多かれ少なかれ「空気読めよ」というヘイトを感じる人はいますし、そうやって嫌われる覚悟を持って発言することはリーダーの必須条件だったりします。

先に挙げた学級会花壇号泣女子についても、彼女なりの問題意識や、自分が先陣を切ってそれを変えていかなければならないという責任感が存在していて、そういった覚悟のもと、あえてそれらの言動をしているのであれば、常識的にはゴエモンインパクトのほうが明らかに大切なのでそれはGuiltyだと思いますが、その姿勢自体は立派なものであると思います。

また、類似するパターンとして「あ、この話ヤバい方向にいきそうだな〜」という予測の上で「ちょっと話変わるんだけどさ〜」とカットインするというのも、そこで主だって話していた人からすれば「空気を読まない言動」であって「俺が楽しく話してたのになんで割り込んでくるんだ」と不快感を覚えることもあるでしょうが、ヤバい方向に行きそうな話を未然に防いだという意味ではコミュニティにとっての損害を減らすことに成功しています。

これらをやる人はその言動がコミュニティにとって良い影響を及ぼしている場合、空気が読めない言動をしつつも、むしろ好かれたりしますし、その結果としてリーダーとしての支持を獲得したり、コミュニティにおいて一定の発言力のあるポジションを獲得することができます。

【3】一方で、この「リーダーとしての支持や何らかのポジションを獲得すること」が目的となって、あえて「空気を読まない発言」をしている場合は、バリバリ嫌われることになります。

学級会花壇号泣女子においては、往々にして「良い子ちゃんポジション」を獲得するためであったり、もしくは「そういうことをしている自分」に酔っているような印象を与える事が多く、その気配を察知したゴエモンたちはその女子に対して容赦無くキセルボムを投げますし、単純に「お花さんがかわいそう」という問題意識が共有できない場合にも同様にそういった自意識過剰な印象を勝手に読み取った上で「空気読めや」とヘイトを向けることになります。

このように「あえて空気を読まない言動をする理由」が他者と共有できない場合、単純に「でしゃばり」としてイタいやつ扱いされてしまうというのが、この社会において先陣に立って発言することに伴うリスクであり、そうした「出る杭は打たれる」という経験やそういった光景を目の当たりにすることで、人前において自分の意見を言うことに対して恐怖心を抱く人は沢山います。

また、この「自意識過剰を読み込まれやすい」というパターンには、「天然」とされる発言を繰り返す人に対する「ぶりっ子」のようなヘイトも含まれており、「まあこの人はこういう人だから」と笑って済ませて貰えているうちはまだしも、「あえて他の人とは違う独自の世界観を持っている自分アピールをしている」と思われてしまった場合には、これまたバリバリ嫌われます。

更にこの「天然」には、あえて「そういうズレたことを言っても許されている自分」という実感を得るためにわざとそういう発言をしているケースも散見され、そうしたメンヘラの「試し行動」みたいなものを察知されてしまうと、ボロカスに嫌われます。

その他、類似するパターンとして「あえて逆張りをすることで目立とうとする」という人もいて、こういう人は「あれ?俺、また何かやっちゃいましたか?」という固定観念に囚われない俺ポジションを獲得するためのセルフプロデュースとして、あえて「空気を読まない言動」をしている感じです。しかも、反射的に逆張りをしているだけなので内容としては中身の無い発言であることが多く、そんな戯言に忙しい大人をつき合わせようとすると当然嫌われます。

【4】このように「自分ってこういうキャラなんですよ~」というセルフプロデュースの匂いが伴う「空気を読まない言動」に対しては、多くの人が不快感を感じてしまうところなんですが、それはいわばその人のお人形遊びに付き合わされるような感覚になるからだと思います。

更にこれが発展して、お人形遊びから脱せなくなってしまった人の場合は、そうやってひたすらにズレた発言をし続けて「自分はほかの人とは違うんだ」と自分自身に言い聞かせないと、自分自身の存在を確認できないようになってしまいますし、そこまで行ってしまうともう嫌われるとかじゃなくて、「そっとしておいた方がいい」というレベルになってしまって相手にされなくなります。

幕張はこういうコマが見どころ

ただ、その根底には現実世界で大したことない自分に対する無力感が存在していて、「自分は空気が読めないんじゃなくて『そういうキャラ』だから仕方ないんだ」だったり「自分が理解されないのは特別な存在だからだ」といった不毛な開き直りをすることで、現実世界をシャットアウトして自分自身を守るための行動なんだと思いますし、そういう弱さは程度の差こそあれどアイデンティティの確立に至る過程において誰にでもあるとは思うので、若かりし頃の黒歴史として笑えるようになっていくことも多いです。

ただ、30歳過ぎてそんな感じの状態が続いているような人の場合は、もう自覚できないくらいに心の奥底から発せられた叫びだと思いますし、そこまで来ると自己愛性パーソナリティ障害などの病的な要素も疑われ始めるため、必死でセルフプロデュースをやればやるほど多くの人から「関わらないでおこう」と判断されて、どんどん孤立していくことになります。

【5】こうしたセルフプロデュース感を察知したときに嫌な感情を持つ人は多いと思いますが、そうやってセルフプロデュースしないとアイデンティティに不安を感じてしまう人が多く存在するコミュニティにおいては、「自分のセルフプロデュースを指摘されたくない」という理由から、他者のセルフプロデュースに対するジャッジも甘くなるという傾向が存在していて、それらが発露しているのが例えばオタク同士のコミュニティにおける謎の武勇伝大会であったり、オンラインサロンにおける意識高いエピソードトークだったりします。

これらについては「何者かになろうとする人」にて詳述しましたが、若い頃はそういう「俺らみたいに濃い面子、他におる?(笑)」みたいにイタい関係性はよくありますし、それはそれで成長過程において必要な通過儀礼な気もするので、批判するつもりは一切無いんですが、あくまでもそれらは「通過儀礼」でしかなく、いい歳こいた大人が集まってそれをやってたり、もしくは公共性の高いコミュニティでそのノリを出されたりすると、確実に「イタい」と思われます。

「セルフプロデュース感」が嫌われる理由については、前述の通り(お人形遊びに付き合わされるのはキモいから)ではありますが、発達障害傾向によって一般的には社会生活を送る中で培われていくはずの「空気を読む」という能力が獲得できておらず周囲と合わせられない場合や、ASDの人にありがちな無駄に芝居がかった喋り方をしている場合にも、アウトプットとしては同様のものとなりやすいために、そこにセルフプロデュース感を読み取られてヘイトを向けられてしまうことは多々あるでしょうし、そもそも単純に「アイツは空気が読めないから」という理由でコミュニティに所属すらできずに、更に空気を読む能力を習得するための経験値が蓄積できない負のループに陥ります。

「セルフプロデュースのためにあえて空気を読まない」という人が往々にして嫌われる一方で、単純に「空気が読めないだけでセルフプロデュース的な印象は無い」という人においては「嫌われはしないが、親密にはならない」という流れから、コミュニティに所属し続けることが難しかったり、他の人がみんなどんどん仲良くなっていくのに自分だけ疎外されているように感じることが多いように思います。

「空気が読めない」というのは前述の通り「文脈」や「暗黙の了解」といった言外のコミュニケーションを認識できないということであり、一定以上の親密度がある関係性においては「目と目で通じ合う」のような言外のコミュニケーションによってより強く信頼関係が構築されていくものだと思うので、それらができないというのは一定以上に仲良くなれないハードルが存在すると思いますし、コミュニティ内における不文律を汲まない言動はそのまま「コミュニティへの反発」と捉えられてしまったり、自分のことしか興味が無いような印象を与えてしまうことから、不文律が強く存在するコミュニティと発達障害傾向は極めて相性が悪いです。

このあたりの特性については、最初の方に書いたように「ある程度理解は広まってきている」とはいえ、ぶっちゃけその人が「あえて空気を読まない言動しているのか」「先天的な特性により空気が読めないのか」なんて容易に判断できることではないですし、結果として「空気を読まない言動をしている」というアウトプットに相違ないのであれば、相手を注意深く観察してそれが故意か天然かを見定めるようなコストを割くよりも、不文律を共有できないコミュニケーションコストの高い人物に対しては一概に「空気読まれへんからアカンわ」とシャットアウトするほうが、地表に人類があふれるこの時代においては明らかに効率的な判断です。

ただ、ここで「空気読めないやつは問答無用でシャットアウトするよろし」と結論付けてしまっても面白くは無いので、少し角度を変えて、ここからは「空気の読み方のタイプ」について考えてみたいと思います。