空気が読めない人

4.まとめ

【1】 これらのタイプ分けについて、「空気スキル」と「空気の支配欲求」の2軸で分布図を作成してみました。

モンドリアン風

ここからはこれをベースにこれまでに出てきた例を当てはめて考えてみたいと思います。

ゴエモンの敵

このように整理したうえで考えてみると、学級会花壇号泣女子は大体この辺(右上寄り)に存在していて、空気スキルが高ければみんなを巻き込んでお花さんを愛でる活動を先導するポジションに行けたかもしれませんが、空気スキルが低い場合は「イタいやつ」としてヘイトを集めてしまいます。そして、空気スキルの高さと社会経験歴は概ね比例するので、社会経験の浅い=空気スキルの低い子供がそういうことをやるとヘイトを集めやすい、という風に理解できます。

天然はどこにでもいる

天然は中心付近に広く分布します。極稀に高い空気スキルを持ったビジネス天然で人気者になる人がいますが、それも支配欲求が見えてしまうと凡人になりますし、空気スキルが低ければイタいやつになります。「天然」とされる人が概ね無害で嫌われないのは、空気に対して積極的に干渉しようとしないからであって、集団において「害にならない」というのはそれだけで価値があるということが理解できますね。

約束された死

「あれ?俺また何かやっちゃいましたか?」で注目を集めたがるタイプは完全なる地獄で、「特別な自分に注目してもらいたい欲求」が勃起しすぎて丸見えなので、どうやってもイタいです。実際、説明された上で、もしくは説明すらロクに聞かずにセオリーを無視するということは「理解力が無いアホ」と思われるか「反発している」としか受け取られないので現実世界でやることはお勧めしません。

では、「空気を読まない言動」が必ずし嫌われるものではなく、場合によっては好かれる場合もある、ということを「空気スキルの高さ」「空気の支配欲求」の関係性を基に考えてみると、右下に行けば行くほど嫌われる可能性が高くなるわけで、上記3タイプの分布に当てはめて考えてみると、このような感じになります。

DANGER ZONE

学級会花壇号泣女子は半分くらい嫌われますし、天然も狙いすぎると嫌われますし、何かやっちゃうやつは絶対に嫌われます。「イタいやつ」ゾーンが嫌われ者ゾーンと大きく被るのは当然だろうなと思いますが、実は凡人の中にも結構嫌われ者ゾーンにかかってくるゾーンがあって、やはり支配欲求が高くなればなるほど嫌われる確率は高くなっていきます。「別に悪い人ではないんだけど…」という前置きの上で陰口を叩かれまくってる人はこういうところにいるんだろうなと思います。

キツい

ちなみに、こうして嫌われ者ゾーンを設定した時、中央左下の深紅に塗った部分が「大人しいし、本人に悪気は無いんだけど、空気読めなさ過ぎて嫌われてる人」であって、「なんだかわからんけど全然上手いこといかねえ」のような悩みを持つ発達障害傾向のある人がこの辺に集中してるんじゃないかなと思います。

Dの食卓

ちなみに、Dの登場人物を並べてみるとこんな感じになります。日本が誇る暴力の象徴・Giantがなんだかんだ嫌われていないというのは、この人気者とガキ大将の境い目あたりに存在しているからであり、骨川はそれに近いゾーンであるからこそGの威光を笠に着ることができるんでしょう。

また、Dに関しては人間の従僕として製造された存在であるために当然支配欲求が低いというのが人気者である秘訣であるかと考えられますし、源もこれくらいだろうなと思います。

問題はやはり野比のポジショニングで、近年のアニメにおいては鳴りを潜めているようですが、原作よりの野比は結構なクズっぷりで、源との結婚エピソードにおける源父の「あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ」という人物評の信憑性は低いとすら思えてしまうんですが、とはいえギリギリ嫌われることもないだろうな、くらいの絶妙なポジションであり、Gも骨もかなりギリギリラインであることを考えてみると、そうした人気者一辺倒ではない人物描写が作品としての奥行きを支えているのかなと思いました。

Dの疑惑

【2】このように整理をしてみると、自分自身のポジションがどのあたりにあるのか、もしくはあの人はどの辺にいて、自分と何が違うのかという点が少しずつ理解できるようになってくると思いますし、その差を埋めるために必要な行動も見えてくると思います。

ただ、そこで見えてくる答えは「人間社会で揉まれて空気スキル(処理能力、洞察力、伝える力)を上げる」「自分の心と向き合うことで欲求を治めていく」という、お馴染みの「ちゃんとする」というマッチョイズムでしかなく、ここに救いを求める人にとっては「それができねえから困ってるんだ」としか言いようがないと思います。

社会一般で求められるような水準の空気スキルに大きく届かない人の場合は、そもそも社会参加することができませんし、SSTなどによって発達段階をしっかりとなぞって自他の違いを理解していく必要があるのではないかと思います。そして、そういった訓練機関やリハビリ的なコミュニティもあるにはあるんですが、それらを有効に活用して社会参加できるようになっていける人というのは、困っている人のごくごく一部に過ぎない印象です。

それは支援内容の充実具合や利用率の問題というよりは、社会一般に求められる水準と当人の水準の乖離幅が大きすぎることや、その乖離の方向性が多岐に及びすぎているという点にこそ原因があるように感じていて、当人やその支援者の課題というよりは「世の中がもうちょっと適当になるだけで楽に生きられる人は結構増えるんじゃないか」と思ったりもします。

このツイートにも書いたんですが、「ちょいちょい死亡事故起こるけどテキトーに生きられる社会」と「滅多に死亡事故は起こらないけど、ちゃんとしてなければ怒られる社会」だと、前者の方が生きやすい人は一定数存在していて、そういう人にとって日本社会は息苦しく感じるだろうなと思いますし、往々にして「イタいやつ」になるんだろうなと思います。

だからといって、海外に行けば息苦しさから解放されるのかと言われると、海外には海外の息苦しさがあると思うので、結局は色々な選択肢の中から「自分なりに一番マシな環境」を選択していくしかないと思いますし、その選択肢を増やすために色々な環境をジプシーしていくのが一つの生存戦略だと割り切って、「ジョブホッパー」などというネガティブなニュアンスは無視していくほうが幸福度が高い気がします。

まあ、そうやって「ハイ次」って切り替えられる人は十分にマッチョだと言われればそれまでではありますが、心的幸福を目指すために取りうる生存戦略がそれしかないのであれば、そうしたら良いと思いますし、それを放棄するということは自ら死を選ぶも同然だと思いますが、自らそれを選ぶのであればそういう選択もアリだと思います。

【3】一方、集団の中で生きていくための生存戦略という意味で「集団にとって害を及ぼさないであろう『空気をコントロールしようとする欲求の弱い人」』だけが『凡人』として、集団に受け入れられる」ということを先に書きましたが、それは「障害者は善人でないと支援してもらえない」という話と同じだと思っていて、人である以上は機嫌の良い時も悪い時も、それによって他者に優しくできたりできなかったりすることは当然あるのにも関わらず、障害者であるというだけで何故生きていくためにニコニコと善人であり続ける必要があるのかという問いに対して「そうしないと生きていけないから」が回答であるとすれば、それは生存権を謳う現行憲法においては明確に「人権侵害である」と言えます。

ここで考えてしまうのは「先天性の特性だからセーフ」「後天的な性格だからアウト」みたな線引きの意義で、基本的には「嫌いなら付き合わなければいい」という己(おのれ)ルールを徹底しとけばいいとは思うんですが、多分そうやって各々の中で関係性が最適化されていった結果として、先天的な特性によって「イタいやつ」にカテゴライズされて集団から疎外される存在が多く生まれているという現状が存在すると思います。その上で「イタいやつ」が大人しくニコニコしておかないと生きていけないという切実さを抱えて生きているのであれば、それを「好ましい状況」と表現するのはさすがに難しいと思います。

勿論クラスで「イタいやつ」と認識されてるけど、友達としては超いい奴みたいなこともありますし、最終的には個人間の付き合いとして自分がどう向き合うかでしかないとは思うんですが、やはり「イタいやつ」の立場で考えてみると集団から疎外される孤独感は間違いなくあるでしょうし、その孤立の主要因が本人の空気を読む能力の低さや空気をコントロールしたくなる欲求にある場合、それは差別なのでしょうか?

「あいつは性格が悪い」という理由で嫌われて疎外される人が存在する事に対して「差別だ」と指摘する人はほとんどいないと思いますが、その性格を形成した先天的な気質や環境は本人にとって選べないものであり、それを理由に集団において疎外される状況と、先天性の障害によって行動が制限される状況にそれほど大きな差があるとは思えません。

当然採用活動のように「その集団における利益を優先する」という特定の目的に対して、適切な人物であるかどうかという一定基準を伴った判断は必要だと思いますが、「一番忙しい時に産休に入られるのは困る」という前時代的な言い分についても「マネジメントコストがかかる」という点に関して一定の正当性が存在した上で「とはいえ気持ちよく働いてくれる人がいないと会社って成り立たないし」という更に大上段の正当性を以てルールを上書きしているような現状もありますし、基本的に「その集団にとって害になりそうなやつ」はどこも受け入れたくはないと思います。

障害にまつわる差別に関して「その『人』を見ることが大事」という言説がありますが、その人の性格やコミュニケーションの特性はその人の人格と容易には切り離せない要素だと思いますし、「付き合いたいやつと付き合えばいい」というのは裏を返せば「付き合いたくないやつと付き合わなくていい」ということであって、結局その判断をするのであれば、「イタいやつ」は孤立していくのだろうなと思います。

このあたりについては障害者支援に限らず、対人支援に関する現場において死ぬほど語られてきた「本当に支援が必要な人ほど嫌なやつである」という話にも繋がっていて、実際に支援の現場を経験した中でも正直「こいつに俺の税金使われてんのか…」とげんなりすることもありました。だからこそ対人支援職をやられている方には尊敬の念を禁じ得ない一方で、「どうしてそれを続けられるのか」という点についてはご意見を伺ってみたいという気持ちもあります。

例えば「遺伝子の多様性を保持することが人類の生存戦略である」や「真の人権社会を実現するために、全ての人々が不自由なく心穏やかに生存する必要がある」など「嫌なやつに優しく接する必要がある理由」に値するような様々な意見は存在していますし、何らかの事象によって自分自身や親しい人々がその立場になるかもしれないと考えたときに「優しい世界であってほしいよね」という自己防衛のための希望が存在していて欲しいとは思うのですが、そのために「嫌なやつと無理して付き合うこと」が必要なのかと考えたとき、どんな大義名分があろうとやっぱり嫌なやつとは付き合いたくないし、関わりたくないというのが本音です。

まあ「仕事だから」と割り切れば、別にそれが苦でも無くなるんですが、逆に言うと「仕事でもない限りは関わりたくない」ってことであって、少なくとも「嫌なやつ」と自ら積極的に関わっていこうと思う理由はどこにもありません。

そうやって「嫌なやつ」である要因がどこにあるか(先天的か否か等)は関係無く、単純に「好きか嫌いか」で判断した結果として「イタいやつ」に先天的な要因を抱えた人が一定数含まれてしまうのは仕方ないのかなとも思います。

また、あえて空気を読まない人についても、そうした欲求は本人の意思で容易にコントロールできないという意味では「自分ではどうしようもできない特性」であると思うので、それも全部ひっくるめて「イタいやつがいるな」と遠めから見ておくくらいしかできないですし、近くによってこられたら笑顔で後ずさりすると思います。

【4】とはいえ、ここで「自分はイタいやつだから終わった」と悲観的になる必要は特に無いと思っていて、つまるところ「空気」というのは投票でもしない限り可視化できないものではありますし、そんな不確かなものに一喜一憂しても意味は無くて、目に見える結果のみにフォーカスするほうがやりやすいとは思います。

「空気読めや」という指摘は、いわば不文律を押し付ける行為であり、そこには「がんばれゴエモン2 奇天烈将軍マッギネスをやりたい」みたいな割と身勝手な欲求を「みんなそう思ってる」というニュアンスを盾に無理やり通そうという意図を含むことが多々あります。そのような意図を含む「空気読めや」は、その論拠となるルールが明文化されていなかったり、その場におけるコンセンサスを形成できていない場合、単なる戯言に過ぎないので、無視してもゴエモンたちのヘイトを買うだけで特に問題はありません。

これまで生存戦略だなんだかんだと大仰なことを書いてきましたが、最悪一人でもそんな簡単に死にはしない世の中なので、変に周囲に合わせようとしてぎこちない笑顔を振りまいたり、無駄に逆張りして目立とうとしたりせずに、まずは手の届く範囲の幸福から段階的に摂取していくのが良いと思いますし、「地に足をつけて生きる」というのはどんな局面においても極めて重要なことであると思います。

結局「空気が読めるか読めないか」なんて、その人のコミュニケーションのクセの一つでしかなく、初対面でこそ戸惑うことはあるかもしれませんが、交友関係が築けるかどうかはそれを乗り越えた先にどんな人間的魅力があるかでしかないですし、人間的魅力なんて当然一朝一夕で身につくものではありません。

自問自答を繰り返し、自らの心で判断して、自らの足で歩んできた道程こそが人間的魅力の正体だと思いますし、その結果としての「好き」「嫌い」の判断は、人権意識や集団の利益などよりも遥かに優先されるものだと思います。勿論、それを理由に他者の権利を侵害しないというのが大前提ではありますが。

バキでいちばん大切な話

ここで梢江ちゃんの言ってる「最愛>>>>最強」の感覚をインストールできてない人は「空気が読めない自分に価値は無い」とか色々と考えてしまうんだと思いますが、結局個人の人生においては「好きなものは好きだからしょうがない」と胸を張って言える方が圧倒的に大切だと思いますし、何が好きかもわからないのは単なる経験不足でしかないので、とにかく赤子のような心で色んなものに触れてみれば良いと思います。

道

危ぶむなかれ

昨年に引き続き、またアントンの言葉を引用してこの記事を〆たいと思いますが、この言葉は人生において本当に大切なこと本当に無駄無く語っているということをようやく理解し始めてきました。

言うなれば、いつも最後にやられてる「1.2.3ダー」が不要ですね。

猪木さん、あれ意味不明なんでやめた方がいいですよ。