ここからは完全に私的な考察です。
1.「社会参加」について
「社会」という言葉は、あくまでも「人の集団」を示すものであって、2名集まればそれを「社会」と呼ぶことができます。「社会参加」と聞くと「就職」「ボランティア」みたいなイメージが想起されますが、上記の定義に当てはめて考えてみると、自分以外の他者と接点を持つことは全て「社会参加」と言えます。
この「社会参加」をするためには、他者と接点を持つための「起点」が存在していて、それは例えば「同じクラス」「同じ会社」といった偶発的に発生した環境によるものであったり、「ナンパ」「マッチングアプリ」みたいに能動的なアクションに起因するものだったりとさまざまですが、この前者の環境要因というのは、年齢を重ねて自身を取り巻く環境が固定化されていくにつれて少なくなっていきます。
例えば結婚相手を探している人の「仕事し始めてから出逢いが無くなった」といった流れはまさにこの経年変化を示しており、ここで環境要因に頼らずに能動的な動きに切り替えていった結果が「街コンへの参加」や「婚活アプリの活用」といった行動です。そういった行動を起点として、他者との接点が発生していくことを考えると、ある程度大人になってからの社会に参加していくために自発的に起点を作っていかない限りは、偶発的な環境要因に依存するため、その機会は年々減少していきます。
とはいえ「自発的に起点を作る」というのはそんなに簡単なものではなくて、上記の婚活の例においては「結婚」という共通目的を持っている人が存在しているからこそ、「街コンに参加する」という行動が起点として成立しているだけですし、「恋人を作る」「友だちを作る」といった主旨のコミュニティやサービスも同様の構造で、結局「市場」が存在していない限りは成立しないです。
その他にも「お金を稼ぎたい」「何らかのスキル/知識を習得したい」「スポーツが上手くなりたい」などの目的において、ある程度共通している人たちが存在しており、その「社会」に対してアクセスするだけで接点を作れる状態なのであれば、それはどんどんやればいいと思うんですが、それらには「既存のコミュニティに対する相性や適応力≒コミュニケーション能力」が必要で、社会経験が少ない≒コミュニケーション能力が低い人とってはハードルが高いです。
そうして社会経験を積まないまま大人になっていくことで、同世代と比較して相対的にコミュニケーションに関する経験値が低くなっていき、社会参加が更に困難になっていった結果、社会から孤立した存在になってしまうというのは容易に想像できるルートですし、就労支援や生活支援の現場においては実際にそういった方が多く存在しています。
そういった方が社会に参加するためには、婚活アプリや社会人サークルといった「既存の社会」に参加するのではなく、その本人が自らの手で「社会」を作るという手法が有効なのではないかと思っていたのが、今回の「劇場型の仕掛け」という考えに繋がっています。
2.社会=祭りのデザイン
レンタル話し相手にはその奇行と炎上によって「彼自身を面白がっている人たち≒ウォッチャー」という母集団が既に存在していましたが、その大半が「距離をおいて遠巻きに眺めている人」であって、あくまでも檻を隔てて楽しむフリークショウとしての趣が強いですし、檻を隔てて用意された接点を「社会参加」と呼ぶのはさすがに無理があります。
しかし、彼自身が神輿となって他者を巻き込みながらプロジェクトを遂行するのであれば、そこには必然的に「祭り」という「社会」が発生します。今回のレンタル話し相手スタンプを作ろうプロジェクトにおいて、私がやったことは「(他者を巻き込むための)祭りのデザイン」と「作業面におけるサポート」だけですが、逆にそれだけのことで他者と接点を作る=社会参加の起点を作ることができます。
多分この辺については「ソーシャルデザイン」という文脈で語られているところであり、それ自体を事業として取り組んでおられる会社さんも見受けられますが、町おこしやイベント企画のような比較的多くの人が関わるものだけでなく、今回のようなミクロな視点にまでそういった知見を落とし込むことができれば、対人支援職のような現場において活用できるノウハウになるのではないかと思います。
そして、この「祭りをデザインする」というのは企画立案におけるスタートラインにあたりますが、「例え本人の社会適性が低くとも、適切な接点を生み出すための『祭り』をデザインすることができれば、社会参加に結び付けられる可能性がある」ということを考えると、人々の関係性を見極めた上で理想形を定義するという「祭りのデザイン」を上手くできるかどうかは成否を分ける重要なポイントになります。
また、「ムーブメントの起こし方」という有名なプレゼンテーションの中で、最初のフォロワーとなる人の「フォロワーシップ」の重要性が示されていますが、そもそも踊ってる本人が楽しそうじゃなかったり、自分が踊っても楽しそうじゃない=参加したくなる祭りじゃないと誰もフォロワーにはなってくれないことを考えると、「万人にウケるデザイン」とまでは言わなくても、「特定の誰か(少なくとも想定ターゲット)にウケるデザイン」くらいは必要最低条件です。
以上を踏まえると「祭りのデザイン」において抑えるべきポイントは、①関係性を見極めた上で「誰」と「誰」がどのような関係性を構築し「社会」を構成するのが理想的か②それは想定ターゲットに対して魅力的なものであり得るか、という2点だと思います。
この二点を踏まえるためには「誰」にあたるターゲットがどんな存在で、どんなものを好むのかをよく知る必要がありますし、そのためにはそれらを支える価値観を理解する必要があります。
更にはそういった価値観を醸成する文化的土壌への理解も必要となってきますし、結局何が重要なのかといえば「色んな人と会って、その人たちに興味を持って接すること」です。
そして、この「物事に興味を持って自ら知ろうとする」という基本姿勢を作ることこそが初等教育における一つのゴールなんだと思います。
少し脱線してしまいましたが、この「祭りのデザイン」自体は必ずしも本人だけで作り上げる必要が無いもので、外部からのサポートが可能であるということは、本人にとっても支援者にとっても大きな利点に成り得ます。とはいえ、全部外注してしまうと単なる操り人形になってしまうので、あくまでも当事者の持つリソースを整理し、それらを最大限活用しながら社会との接点を持てるようにするというのが、支援する立場の人間の留意しなければいけないポイントかなと思います。
ちなみに今回の場合は「距離をおいて遠巻きに眺めている人」の中に「面白そうな祭りなら参加してくれる人」が複数いることを事前に認識していたので安心して進めることができましたが、本来であれば最初は「これを面白がってくれる人がいるかどうかはわからない」という不安な状態からスタートすることになりますし、それはもう経験と割り切ってやるしか無いと思います。高座にかけてみないとネタの良し悪しはわからないので。
勿論「こんなおままごとの成功体験で一時的に気持ち良くなったところで意味は無い」というご意見はあると思いますし、数か月間職業訓練を受けたとて手に職を付けられるほど簡単に攻略できる社会ではないので、自立支援の観点からこういったロールプレイの効果を短期間で可視化するのは極めて難しいとは思いますが、一方で「おままごとの成功体験すら積んでいないまま大人になってしまった人」は結構存在していて、そういう人たちがどこからスタートするかと考えたとき、おままごとであっても「やってみたら意外とできたな」という経験を重ねていくしかないと思っています。
3.自立支援の観点
支援職の方々にとっては見覚えのある光景だと思いますが、そういった「おままごと」を経ないままショック療法的に社会経験の少ない人を既存のコミュニティに無理矢理ねじ込むような形で社会参加させたところでほとんど定着しませんし、逆に柔軟に対応できる受け入れ先であれば定着しやすいです。
しかし、この「柔軟に対応できる受け入れ先」ってそんなにあるわけではないので、やはり「ねじ込み」みたいなのが発生してしまい、結果的に全方向で不幸になるというパターンが多いです。
上記の構図は公的な就労支援や生活支援の場面だけでなく、教育の現場における「クラスに馴染ませてあげたい」や、親子関係や友達関係における「自立させたい」といった一般的な関係性のなかでの自立支援においてもよくあることで、無理矢理既存のコミュニティにねじ込んだショックでメンタル不全を引き起こして再起不能になるケースや、そこでの不和が原因で絶縁状態になるケースなど、まあまあな確率で悲惨な末路を辿っています。
ちなみに「そんな(大人なのに支援が必要な)やつは手出しせずに公的支援に任せた方が良い」という意見も当然存在しますし、私自身もそれが理想だとは思いますが、現場の声を聞く限りでは完全にリソース不足だと思いますし、そうやって不十分な支援を受けることで病院(場合によっては刑務所)と公的支援を行き来するだけの存在を生むのであれば、やはりそこに至るまでに自助や互助の範囲でできることをやっていく必要があるのではないかと思います。
そして、その自助や互助の手段の一つとして「祭りをデザインする」という選択肢を改めて認識することが、多方面で見られる「既存のコミュニティに馴染めない」という課題を解決するための一助になればいいなと思い、本稿を作成しました。
学校教育における修学旅行や文化祭、体育祭といったレクリエーションは、わかりやすくこの「祭り」の役割を果たしていて、その中で普段の学校生活とは異なる接点を作り出す機能がありますし、社内サークルのような業務外の活動を推進する企業においても同様に「祭り」を用意することで普段とは異なる接点を作り出しています。
ただ、このように「用意された祭り」であっても特に気にせずに祭りの雰囲気そのものを楽しめる人やそれが何であれ自分なりの楽しさを見出だせる人、つまり文化祭や体育祭などの行事をそれなりにエンジョイできるタイプの人がいる一方、「納得できない祭りには参加したくない」と祭りの輪に背を向ける人も存在していて、そういう人は運良く理想の祭りに出会わない限り、祭りの輪に入る=社会に参加することはないので、結果として社会経験を積まないままに過ごしていくことになります。
ちなみにレンタル話し相手においては「高校時代の演劇部」が運良く出会った理想の祭りだった※ようで、その理想を現在も追い続けているみたいですが、それはあくまでも高校3年間限定のものですし、移り変わるライフステージに応じて自分の参加する祭り=社会を選んでいくことで人間は成長していくものだと思います。※ブログにそんな感じのことが書いてありました。
ここで「自ら祭りを作る」という選択肢を持つことができれば、社会参加の機会を能動的に増やしていくことが可能になると思いますし、その過程において「どんなビジョンであれば他者と共有できるのか」「どのようなコミュニケーションを通じて共有していくか」「そのビジョンを実現するためにはどうすればいいのか」を考え、実践していく中で、自分や他者の得意不得意や力関係が幾重にも折り重なって「社会」が構成されているという実感を得ていくのかなと思います。
同様に「社会における居場所を作ること」に重点を置いた各種支援をされている方や団体などは既に多数存在していますし、オンラインサロンのように「社会において疎外感を感じている人」や「自分の居場所はここじゃないと感じている人」をターゲットにしたビジネスモデルも存在していて、それなりに支援やサービスは充実しているように見えるんですが、長い人生において他者から用意されるそれらは一時的に避難できるシェルターでしかないですし、資源が枯渇すれば単なる牢獄と化すだけなので、最終的には「どこかに属する」か「自分で作り出す」しかないです。
そして、そうやって自ら所属する社会を選んで適応していったり、自らの手で社会を切り開けるようになることが「自立」だと思います。
なお、これは「サラリーマンか自営業か」というある種の人たちが好む二元論の話ではないですし、もしここまで読んで少しでもそういう風に理解した方がおられれば、間違いなく社会経験が不足しているので問答無用で企業に就職して必死で働いたほうが良いです。あくまでもこれは手段の話であって「会社組織の中で自分の強みを活かせる部署を作る」とかも全然ありますし、反対に「自営業者として企業に寄生して生きていく」とかもあるので、結局はその状況に応じて自分で選択していく必要があります。この辺の話をすると更に長くなりそうなので割愛しますが、「誰かにお膳立てされた場所で気持ち良くなってるうちは一人前とは呼べない」ということです。
4.総括
ただ、人々を巻き込めるような「祭り」を作る能力=企画力について考えてみると、特に何もせずともそれに長けた人がいる一方で、ひたすらスクラップ&ビルドを繰り返しているような人も存在していて、そこには明確に得意不得意があるように見えます。この差を「才能」とか「センス」とするのは簡単ですが、個人的に企画力はインプット量に比例すると思っていて、それは単なる読書量や行動量だけでなく、物事をどんな角度から見て何を抽出するかも重要です。
「一を聞いて十を知る」みたいなことができる人は、このエッセンスの抽出が上手な人であって、最初からそれができるのはそれこそ「才能」や「センス」によるものだと思いますが、逆にそういったエッセンスの抽出が苦手な人であっても、とにかく大量のインプットをしまくることで、ドモホルンリンクルのように自分の中に少しづつ力を蓄えていくが可能だと思います。そして、インプットとアウトプットを繰り返していくうちに「勘所」みたいなものがぼんやりと把握できるようになってくるに比例して、企画力も向上していくものだと思います。
ここまでを整理すると、
①既存の祭りを自分なりに楽しむ(既存の社会の中で自分なりの幸せを見つけて生きていく)
②既存の祭りを楽しめないなら自分で祭りを作る(自らが中心となって他者を巻き込みながら社会を作っていく)
③自分で作れないならもっとインプットする(さまざまな経験を重ねる)
となります。
人生においては全ての人が何の経験も無い③からスタートして、そのままスムーズに①に移行する人もいるでしょうし、②にいってダメだったので①に行く人や、②から③に戻って②への再チャレンジを目指す人がいたりするんだと思いますが、離島で仙人みたいな生活でもしない限りは①か②に落ち着かないと社会の一員として自立して生きていくのは困難です。
さて、これまでにもこういうもの(真説ミヤハヤ夜話、何者かになろうとする人、友達がいない人 ※全て本文は無料ですが、この記事と同じくらい長いです)を書いてきた中で、毎回「ちゃんとせえ」みたいな結論を再確認しているので、自分自身でも飽き飽きしてるんですが、大体の問題って「(ポイントを抑えて)ちゃんとする」だけで解消されますし、問題が解消されないのは「やってない」か「やり方が間違っている」しか無いです。
今回の場合は「いろいろな経験を積んで、自分なりの幸せを見つけるか、自ら切り開く力を身に付けろ」という話であって、社会参加が上手くいってない人は「いろいろな経験を積む」ということを「やってない」か「やり方が間違ってる」ってことだと思いますし、大半は「やってない」んだと思います。
そして、それを阻害している原因を把握し、排除していくというのが、社会参加に向けて本人や支援者が取り組むべきことなのかなと思います。ここはお医者さんの「自分たちがやるのは線路のゴミを取り除いて走りやすくするだけで、最終的に走るかどうかは患者さん次第」という視点と完全に同じだと思っていて、「自分でちゃんとする」というのは「自らの手で自分自身の走りやすい状態を実現する」ということなんでしょう。
とはいえ、リーダーシップを発揮した経験を語らされる新卒の就活市場とか年収400万円以下は相手にしてもらえない婚活市場、また現代の倫理観でタコ殴りにされる昭和のおっさん達を見ていると、時代が進むにつれて世界の求める「ちゃんとしろ」の圧力は強まっているように感じていて、まあそれ自体は「昔が異常だった」という言い方もできると思いますし、皆が「ちゃんとする」ことでより良い社会になるというのはその通りだと思うんですが、それでも「(何らかのハードルによって)やろうとしてもやれない人」や「間違っていることを理解できない人」みたいな課題を抱える人は絶対に存在しますし、そういう人たちは今後より一層生きにくい世の中になっていくんだろうなと思います。
そして、そんな世知辛い世の中では「やってるつもりになれる」とか「正解のやり方を教えてくれる」みたいな場所が、生きにくさを感じる人々の目により一層魅力的に映るんだと思いますし、そうした人々の焦燥感が昨今のオンラインサロンや情報商材屋さんの隆盛につながっているんだと思いますが、そうしたビジネスが受け皿となっていることが救いなのか地獄への道なのかはわかりませんし、一時的に「ちゃんとできない人」のシェルターとなっているという意味では、今回のプロジェクトも似たようなものではあるかもしれません。
ただ、そうやって「ちゃんとする」から目を背けてシェルターに永住しようとする人や自らの手で居場所を作り出そうとしない人と、(少なくとも私は)一緒に仕事をしたいとは思わないですし、友達になりたいとも思わないです。弱い存在はすぐに壊れてしまうので。
完